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グルテンフリーに開かれた

こんばんは。

阿部美希です。

実は今、そんなに文章を書くモードになれず
スイッチもなかなか入りません。

春だからかなぁと考えてぼんやりしていると
なかなか暖かくもならず
寒いようななんだかわからない日々に戸惑っています。

でも、日常で感動したことがひとつだけあって。


そのことについて、どうしても書き記したいです。

1.ドクターストップがかかった

先日、初めて「グルテンフリーのパスタ」を食べました。

お家で食べたのですが、
この美味しさに感動。


私が食べたのは、とうもろこしの粉をパスタにしたもの。


皆さん、グルテンフリーのパスタを食べたことありますでしょうか?
私はついこないだまで小麦粉を使わないパスタがあることすら知りませんでした。


私はパスタが大好きで、
それこそスーパーに売っている温めてかけるだけのソースでも喜びます。
唯一の行きつけのお店もパスタ屋さんです。

ところが今年に入ってから、
「小麦粉を食べない生活」をするように主治医から言われました。


自分の今悩んでいる症状の改善のためには
グルテンフリーを実行する必要があったのです。


そんなことでもない限りパスタを食べないという日々を送ることはないし、でも体のためならやらなくてはならない。


ただ、諦めなければならなかったのは
もちろんパスタだけではないんです。

パン、うどん、ラーメン、そばも諦めなければならず、ほとんどの主食は小麦粉に頼っていることに気付かされました。

2.当たり前の概念

私にとって、パンやうどんが小麦粉なのは理解できたのですが、ラーメンや蕎麦にも小麦粉が含まれていることには多少の驚きがありました。


ただ、それも受け入れて、
ほぼお米で過ごすことになりました。

1ヶ月ほど過ごしてみると、
それほどパンやうどんを欲しがらなくなりました。
食べている人を見ても、ふうんと言う感じ。

ただ、パスタへの気持ちは違いました。

私が特に好きだったナポリタンを家族が食べているのを見ると、「ああ、あの味をパスタでどうしても食べたい、、、!」と衝動に駆られて泣きそうに。

そんな時、旦那さんが
「そう言えば、小麦粉を使わないパスタもあるよね」と
教えてくれたんです。


私は
「え?なに?なんで?小麦粉を使わないのにパスタなの?味がそもそも違うんじゃないの?」
と不思議でたまりませんでした。

そこから、すぐに行き着いたわけではなく、
私には躊躇いがあり、しばらく米生活を当たり前のように送っていました。

ただ、それは後に私が「当たり前」と思うことを覆される出来事になるのでした。


3.ナポリタンをもう一度

そんなある日、再び、ナポリタンを食べたい衝動が。

こうなると、もう、一口もらって食べるくらいなら悪くないだろうとかそういう気持ちになり、そして、
食べた後には罪悪感。
そんなこともありました。

「やっぱり罪悪感なしで食べたいなぁ」と私が呟くと
「買ってきてあげるよ」と、その日に旦那さんが
買ってきてくれたのです。

そして、
ケチャップや簡単な調味料で味付けられたとうもろこしのパスタを食べてみました。

ん?これは、、、、
ナポリタンだ。

何口食べても、久しぶりのナポリタンの美味しさに感動して思わず目を瞑ってしまうほど。

あーこれが食べたかった!!!!!

やっぱり私はパスタが大好き!
取り分け、ナポリタンが大好き!!

と、体が欲していたものをそのまま与えてあげた幸せに浸りました。

そして、完食後、私の中に違和感がひとつ、
ぽっと、芽生えたのです。

4.なくてはならないもの?

私の中に芽生えた気持ちは
「あれ?じゃあ、小麦粉ってなに?」
でした。

パスタ=小麦粉だった私の概念は見事に覆され
目の前にあるパスタの形と味の物体は
小麦粉ではなくとうもろこしの粉。

騙されていないのにどこかずっと騙されていたかのような、恥ずかしいことではないのになんだか恥ずかしく感じるような。。

なにこの感覚、。

同じものに見えるし味も変わらない。
それでいて、体に負担がない。

生きてきて29年間ずっと信じて口にしていたものは
「それ以外のもの」でも置き換えられるものでした。

その事実が、私の中で渦巻き、ぐるぐるとしばらく巡り、「なくてはならないもの」はこの世には存在しないのかもしれないという果てしなくゼロに近い世界を思う気持ちになりました。


◯◯でなければその物ではない。
このメーカーでなければ美味しくない。
○○から作られていなければ意味はない。

自分で決めつけていることって、食にも存在するのだな、と。

5.食は生き方

食は自分の生き方そのものに思います。

こんなことを言うなんて到底想像できないし似つかわしくない食文化を持ってきた私なのですが、
病になって、日々感じることが、これなのです。

弱っているからそう思うのではなく、
薬を口から取り込むように毎日食べている食事も
薬なのだと思うのです。

私は、衣服が好きなので、
これまでも衣服についての想いや学んだことを共有してきました。

衣服には
好きという概念がそこにあるからこそなのですが、
食にも同じことが言えるのだと気付かされました。

私は料理が苦手です。

嫌いというほど料理をしてはいないので
おこがましいのですが、どちらかと言うと嫌い。

でも、もちろん
何も食べずにここまで生きてきたわけではないし
多少なりとも母親の味を再現しようとするくらいは
様々な料理を食べてきました。

ここまで書いてみると、衣服と同じだなとやっぱり確信します。

何も着ずには生きていられないし
母からのセンスやファッションの楽しさを感じながら生きてこられた。

生きていく上でなくてはならない意味で
衣服も食も同じ。

なんなら、食の方が
中身を変えてくれる物ではないか、と。

直接私の体に入っていくものではないか、と。

6.源になるモノを知ること

私の活動のひとつに、
衣服のルーツをたどりたいという野望があります。

できれば、ひとりではなく誰かと共有したいのだけれど
今はその基盤を作るための時間を過ごしています。

衣服のルーツとは、
糸を紡ぐことや縫われることももちろんですが
そうなってくると糸ができる過程まで丁寧に追いたいですし、そこに携わる方の想いを発信したい。

でも、最近、なかなかその部分に想いを馳せられなくて
重きを置けていない自分が居たんです。

どれだけ考えても、プロセスがうまく組み立てられなかったり人との繋がりに難しさもあったり。

ご時世に負けたくなくてもそもそも自分自身も弱ってしまっていたり。

しかし、今、自分を立て直す活動をしてみて、
食にもルーツを感じて心が動いたように
やっぱり、源を辿りたいなと再び思いました。

衣服や食、その他の生きるために不可欠なモノや事象、システムの全てには「人の手」が必ずあって、その数だけ「思い」があることを
まるで初めて感じたかのように今思い直しています。

自分に欠かせない食の一つひとつのルーツも同じように辿ってみたいです。

やはり、知らなかったことを知ることは
恥ずかしくないですね。

こうして、一つひとつ自分に返していけると思います。

私の病経験からのルーツもいつか、
見つかりますように。😂

結局、長々と書きましたが、
グルテンフリーのパスタにもう一度人間性を開かれたというお話でした。笑

今後もつらつらと書くことがあるかもしれませんが
春だからポーっとしてるのだなと思って読んでいただければと思います🙇🏻‍♀️


読んでくださった方ありがとうございました。





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