見出し画像


先日、父が死にました。

その日の夜に父のことを殴り書きしてツイートしました。見返してないので何て書いてるかぼんやりとしか覚えてません。無茶苦茶な文章だんだろうなぁ。あえて清書せずnoteにも記しておきます。落ち着いたらちゃんと見直したいなぁと思って。ハッキリと断言できるのは、父からの影響が僕の人生にとてつもなく大きいということ。そんなに深く言葉を交わした訳じゃないのにね。不思議。

父からいろんなことを教わりました。

ーーー

また夜実家に戻るけどちょっと落ち着いたので父のこと書く。

僕のグラフィックデザインの原点は父が塗ったハットリ君の「ぬりえ」。会社から帰ってきた父が赤ペンと青ペンでストライプで塗った。今までべた塗りしか発想がなかったから、脳がぱっかーんと開いたような衝撃だった。幼稚園の時だった。

中学の時に、こっそりマンガを描いてるのをなぜか知ってて「マンガ家はいろんなことを知らないとあかんで」と言われた。僕はなぜか恥ずかしくて何も言えなかった。

美大受験でぜんぶスベって落ち込んでたら、「4浪でも5浪でもしたらいい。兄弟で1人くらいそういうヤツがいた方がおもしろいから」と言われた。ぜんぶ落ちてたし、美大なんて受かる未来を想像できなかったからかなり心が救われた。

家を建てる時にローン組む。「借金はできるだけして、現金はいざ使いたい時のためにとっておいた方が良い」って言われた。当時、任天堂入って2年目。起業なんて何も考えてなかった。

父は美術が得意で好きだったようで、小学校の時、自分の顔を「父に描いてもらう」というという会があって、ひとりだけ本気でリアリティのある僕の顔を描いて浮いていた。死ぬほど恥ずかしかったけど、自分の娘に同じことをやった。

1人目の子供が生まれてすぐ東京で転職したいって言い出した時や、二十歳で髭生やしてたとき、スポーツ推薦を辞退して美大受験したいって行ったとき、母に死ぬほど反対されてた時も全部受け入れるスタンスだった。自分のこと以外に興味ないだけかもだけど(笑)

母曰く、囲碁、麻雀、競馬、ギター、お酒…自由に遊びまわっていた人。僕のエンタメ絶倫は父譲りか。

仕事もがんばっていたらしく、最初タカラ酒造でがんばってて、オムロンに乗り換えたらしい。この辺の話もっと聞いておきたかった。

認知症発症から10年で死。というのは何となく知っていたが本当にそうなってしまった。父本人が認知症になる前「そんなに長生きしたくない」と言ってたのを覚えている。認知症の期間は辛かっただろう。

父の病気がなければ会社を辞めてなかったかも。病気によるいろんな事件が怒って毎日会社に行ってる場合じゃないとなった。でも、それは表向きにかっこつけたいいわけで…。

今を一生懸命生きるってただ表向きにかっこつけるだけで。本当は新しい世界に飛び出したいけど、飛び出せない臆病な弱い自分が父の病気を利用したのかもしれない。

父とは深く語り合ったようなことはほとんどないけど、幼少、思春期、受験、会社員、独立、僕の人生は父なくしては語れない。大人になってから恥ずかしくて「おとん」って読んでたけど、お父さん。お父さん、今までありがとう。(おわり)

ーーー

お通夜の時に聞いた父のこと。知らない父の話を聞くのはうるっときてしまうものがある。父とお酒を飲みに行ったのは一度きり。もう一度飲みに行っておけばよかった。

父は「70歳まで生きない」「寝たきりは嫌だ」「長生きしたくない」といろんな人に言っていたことが発覚した。兄なんて小学校の時に聞かされている。その時、兄はどんな顔をしたのだろうか。
 
いろんな場面で父から影響を受けてきた。お通夜で父からの最後の影響を受けた。父は元気な時に思いっきり楽しんで生きるを全うし、老後のことを考えずに生きた。

僕は年齢で考えない。元気な時間を長く維持する。健康。今日、健康診断予約しよう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?