僕のデザイナー1年目

※エピソード追加(2024年4月25日水曜日11時)
※エピソード追加(2024年4月27日土曜日19時)

4月1日、会社は京都。兵庫県伊丹市から2時間かけて通うことになった。2001年4月、新しい世紀に突入し、新時代における新社会人となり、未来に向けてワクワクしていた。

4月の研修で、社会人として求められるマナーや知識、常識を学んだ。しかし、最初から自分は他の社員よりも劣っていると感じ、劣等感に苛まれた。社外の研修で、できていない例として取り上げられ、他の会社の社員たちの前で恥をかいた。

僕は何かを始めると他の人よりも不器用で、うまくできないタイプだ。しかし、僕の強みは1から情報を集め、コツコツ続けることで平均レベルまでにはなれること。落ち込むこともあったけれど、僕は元気だ。映画『魔女の宅急便』のスタンスでやればいいと考えた。

もともとビジネス書が好きで、新入社員向けの自己啓発本を読んで4月を迎えた。その本には「人生における仕事とはマラソンのようなもので、休めば休むほど遅れをとる」と書かれており、それが頭から離れない。この考え方は仕事で成功したい人には役立つが、ほとんどの人は適度に休むため、そこまで呪われなくてもよいだろう。

自分はゲーム制作ではなく、「ゲームの魅力やワクワクを伝える仕事がしたい」と考え、希望を伝えた結果、CM制作の部署に配属された。当時はSNSがなかったが、「自分の意思を伝えることがSNSの本質だ」と感じていた。SNSは承認欲求を満たしたり、人と仲良くなるためだけのものではなく、自分の個性を確立し、発信する場所だと思っている。

配属後はとても緊張し、最初の自己紹介でぐだぐだになり、長く話してしまったため、「そろそろその辺で」と言われた。しかし、皆は笑顔で、和やかな雰囲気だった。

プロのデザイナーとして働き始め、学校の課題とは全く違うと感じた。ビジネスの現場では多くの人が関わるため、自分だけの視点では対応できず、焦りを覚えた。デザインは「みんなのデザイン」であることを知り、「自分のデザインだ」と思っていたのは勘違いだった。

そのころ、三谷幸喜監督の『みんなの家』という映画を観て、デザインの本質が分かった気がした。その瞬間から、デザインは姿勢と言われる意味を理解した。デザインは思考と造形の組み合わせで、思考が変わることで造形力も向上する。

1年目には多くの人が様々な声をかけてくれたことは、本当に宝だと思う。ある時、社長が「社長は1日中会社のことを考えている。その息子は半日は考えている。では、前田君は何時間会社のことを考えている?」と言った。この一言で、自分がどれほど独りよがりだったかを痛感し、それ以降は会社や業界のことを考えるようになった。

「デザイナーは、自分の好きなものを理解していなければ、良いものを作れない」という言葉を聞いた時は、何の意味も感じなかったが、後に考え続けることの重要性に気づいた。半年後に、その言葉をくれた人に解釈を聞いたところ、答えが正しいかどうかではなく、考え続けることが重要だと言われた。

僕は何をやっても平均以下だが、不器用なりにコツコツ進むことで、人生のマラソンを走り続けようと思う。デザインでは、多くの意見や修正が飛び交い、新人のころはそれを受け入れるのが精一杯だったが、ショートカットの徹底やデザインの時短を図ることで、自分の世界を確立するようにした。

あるデザインプロジェクトでは、10案くらい作ったが、他部署の人に囲まれた。その中で同期の一人が「何か嫌い」と言った。それに腹が立ったが、今なら「なぜ嫌いなのか?」と尋ねて分析できる。しかし、当時はそれができなかった。デザインを大事にする軸がなかったからだ。軸があると、たくさんの意見と対話し、より良いものが作れるようになる。

配属先では、新人に自由にデザインさせてくれて、「そうきたか!」と驚かせることもあった。また、ポートフォリオ用のクリアファイルを使って、実験的なクリエイティブを作ることを奨励してくれた。これは今の前田デザイン室にもつながっている。

色校正の段階で、赤いボールペンで修正を指摘してくれるなど、プロのやり方を学んだ。

1年目のデザイナーは、赤ちゃんを育てるように大事にされる。それが、僕の成長を支えてくれた。

「グループ感ってなんですか?」って聞いたら1秒で「疾走感」と答えが出てきたことにと驚いた。 ここまでで3ヶ月くらいかな?

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●追加エピソード1(2024年4月25日水曜日11時)

大きな発表会の資料をいれるファイルを設計から印刷会社さんと作った。紙を選んで、色を選んで、紺とシルバー、CDを取り外すと「Thank you for coming today」と隠し文字を入れていた。「ん〜、かっこいい」と自画自賛。しかし、大失態を犯していた。パスのイラストが長体がかかっていた。しかも、自分で気づかなかった。自分の眼で気づかなかったことにショックを受けた。デザイナーの視力が足りていなかった。

同梱したうちわのデザインは好評で開発の人が数人欲しがってくれていた。背中がゾクゾクした。欲しがられるデザインって大きな喜びだとだった。裏表同デザインでシチュエーション違いだった。ある大物が、うちわの柄を丸くして手のひらでくるくる回してアニメーションにするのは?と言われ、そこまで遊ぶのか!?と驚いた。僕の心に今でもある「遊び心」はこうやって植え付けられていったのかもしれない。

資料のデザインも美しく作った。ヒストリーのイラストもかなり完成度が高いものができたと自負している。1年目の仕事はそんなことも鮮明に覚えている。でもその数年後そのデータを探したけど一向に見つからなかった。どこにいったんやろう。

その大きな仕事を終わってから、かなり暇になった。暇が嫌だったので自分で総合カタログ(リーフレット)を勝手に作った。しかも、それを展開すれば店頭POPとして使えるものを。店頭でWebサイトのあらあら画像をプリントされてPOPにされているのが嫌だった。デザインしたいと思った。NNとっつけてマークみたいにした。それを師匠が営業さんに持っていってくれて実際に作ることになった。そのあと、車内で見た人がそのリーフレットの存在を知って、うちの部署に電話をかけてきてくれた。「ええんや」って。また背中かゾクゾクした。

(また、追記するかも)

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●追加エピソード2 (2024年4月27日土曜日19時)

あるイベントがあって、今から正気では目を合わせられないロゴができてしまった。しかも納品してから何度も修正して。あれは世に出したくないロゴデザインNo.1。Tシャツにも入ってしまった。元のロゴよりはよくなっているので達成はしたが、自分で自分のデザインが好きに慣れない。そんな後味が悪い仕事だった。

実はもうひとつロゴ案があって、可変ロゴだ。2001年でもうやっている。ぼくは可変ロゴが好きなようた。パズルのように組み替えて使うロゴ。ロゴで遊びたい気持ちの表れなんやろうか。

そのイベントでサルブルネイの松本弦人さんとあった。熱があったらしいけど、名刺交換と握手をしてもらった。はじめて握手をしてもらった有名デザイナーかも。財布の中から名刺が出てきた。実は、雑誌広告のお手伝いをしたことがある。これは貴重。

一年目はとにかく勉強熱心で、タイポグラフィーにも夢中だった。たまたまドイツのタイポグラフィーの本をろう文道というところで買ったら、片塩二郎という人から電話がかかってきて1時間ぐらい話した。後から調べたら『ふたりのチヒョルト』を書いたどえらい先生だった。スイスとドイツに行きたいって僕が言ったら「スイスとドイツの学生は、京都の寺からタイポグラフィーを学びにくる」っていうことを聞いた。目から鱗だった。たしかにそれから数年後、龍安寺に行ったとき、ただならぬ厳格な空気と緊張感を感じた。だが、当時は京都の寺からタイポグラフィーは学ぼうと思わなかった。Helveticaが好きだった。書籍にはいくらでも投資しようと思っていた。

秋に入り、どんどん仕事が慣れてきてしまった。飽きてきた。あるゲームの店頭POPを作ることになった。イラストが間に合ってなくて、Photoshopで書き足していた。世界観そのままで。そういうコントロールができる方だった。師匠の目指しているデザインもなるべく生かして、デザインするのが得意だった気がする。佐藤可士和風、佐野研二郎風、服部一成風、タイクーングラフィック風、憑依するデザインは得意な方。デザインのトレースはしたことがない。

(また、追記するかも)

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まぁ、……デザイナー1年目の話は尽きない。本当に1年だったのか?

この話は24年前の話です。前職の会社の事なんで具体的には避けてますが、ほとんどはっきり覚えています。 デザイナーの1年目というのはそれだけ、新しいことと出会い、刺激を受ける。それが、凝縮された時間だ。

ほんとに、ほんとに、その先の人生を左右する宝石のような1年なんです。 その一年を共有したらいいと思うんですよね。NASUの新人デザイナー小賀くんの一年を紐解きます。 「デザイナーの1年を疑似体験できるトークイベント」参加お待ちしてます。申し込みはこちら

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最後まで読んでくれてありがとうございました!

株式会社NASU 前田高志

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