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NO.72 山田太一さんの「断念するということ」に就いて



脚本家 山田太一さんの著書の一冊に『生きるかなしみ』(ちくま文庫)というアンソロジーがある。


その冒頭に山田太一さんが寄せている「断念するということ」という文章があって、僕は初めてこの文章を読んだ1991年32歳の頃、その容赦もないペシミズムに打ちのめされるような気がして、しばらくバイブルのように読み返していた。


それから30年以上が経ち、何度かの転勤に伴い本を整理しているうちにその本を手放してしまったようで、昨年の山田太一さんの逝去の報を受け、もう一度読み返してみたいと思っていた。

先日、神保町の「東京度書店」に立ち寄った時、その『生きるかなしみ』が復刊されていると知り、早速入手した。


64歳になった今、そして今年初めからの地震、日航機と海上保安庁の航空機の事故、秋葉原での電車内の殺傷事件などいくつもの災害や事故が相次ぐ中、再び山田太一さんの「断念するということ」という文章を読むと、そのペシミズムがまるで現在のこの国の状況を予言しているように思えてきた。


例えばこんな文章。


「災害の前にはひとたまりもなく、数日食料が尽きれば起き上がることもおぼつかない。交通事故などといわなくても指先の怪我ひとつでへとへとになってしまい、悪意中傷にも弱く、物欲性欲にふり回され、見苦しく自己顕示に走り、目先の栄誉を欲しがり、孤独に弱く、嫉妬深く、その上なんかんだといいながら戦争をはじめて殺しあってしまう」


まるで令和6年の今、この国で現実にあるいはSNS上で起きていること、あの人やこの人の姿(そこにはもちろん自分自身も含まれている訳だけど)が思い浮かぶ…


山田さんはこんな風に続ける。


「「生きるかなしみ」とは特別なことをいうのではない。人が生きていること、それだけでどんな生にもかなしみがつきまとう。「悲しみ」「哀しみ」時によって色合いの差はあるけれど、生きているということは、かなしい。いじらしく哀しい時もいたましく悲しい時も、主調低音は「無力」である。ほんとうに人間に出来ることなどたかが知れている。偶然ひとつで何事もなかったり、不幸のどん底に落ちたりしてしまう。一寸先は闇である」


まさに山田太一さん流のペシミズムの極みのような文章だけど、僕なんかはもう「まさにその通りです…」と首を垂れるしかない。


凡人である僕は、でもなんとかそこから立ち上がる道筋はないものかと思ってしまうけれど、山田さんはこんな風に書く。


「大切なのは可能性に次々に挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか?可能性があってもある所で断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか?

 私たちは少し、この世界にも他人にも期待しすぎてはいないだろうか?

 本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない」


山田太一さんがこの文章を書いたのは57歳位の時。

僕は64歳になってもまだまだその時の山田太一さんの達観にはほど遠い。

しかし、初めてこの文章を読んだ32歳の頃から30年以上生きてきて、少しはその境地に近づきつつあるのかも知れないとは思う。


今年はまだ5日間が経ったばかり。

これから一体どんなことが起きるのだろうか…

僕はどう生きていけばよいのだろうか…


山田太一さんに尋ねてみたいけれど、おそらく「それはもう本の中に十分書きましたよ。後はご自分で考えることです」と返事が返ってくるかも知れない…


 



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