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NO.55 小津安二郎のために

今日、2023年12月12日は、映画監督 小津安二郎(1903-1963)の生誕120年目の誕生日であると共に没後60年目の命日にあたる日だ。

今日はBSNHKで小津の代表的な作品『東京物語』(1953年)のデジタルリマスター版が放送されるそう。

僕はこの『東京物語』(デジタルリマスター版)を、2011年に葉山の研修所にいた時にテレビで見ていて、その時のブログにこんな風に書いている。

「久しぶり見る『東京物語』は涙が出る程懐かしい映画だった。
今回深く印象に残ったのは、登場人物が立ち去った後の人気のない部屋のシーンの持つ佇まいの美しさ。」

このシーンに限らず小津安二郎の映画では、人が立ち去った後の部屋を長く映すカットが印象的だ。

物語の進行を考えればこのシーンは必要ないかも知れない。

しかし、その人のいない空白の部屋がもたらす「余白の美」のようなものが、映画全体に豊饒な余韻を与えている…

そんなことを考えながら、ふと日曜に訪ねた江戸城・皇居の中の広大な広場のことが頭に浮かび、フランスの哲学者ロラン・バルトの著書『表徴の帝国』で皇居について「空白の中心」という意味のことを書いていることを思いだした。

この本の中でロラン・バルトは、西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。

ヨーロッパの精神世界が記号を「意味」で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。

そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる、と語る。

ロラン・バルト自身の言葉を引用すると、

「(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。・・・緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速に精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。」

もちろん個人の感想だけど、この世界・この国が「意味」に満たされようとしながら、その実態は(某ヒルズのように)空虚な空間しか生み出していないように感じる今、小津安二郎の映画や皇居の中心に残る「空白」の中に、もしかするとほんとうの美や文化がかろうじて残っているように感じるのは、小津の命日に覚える僕の感傷なのかも知れない…

※写真は江戸城本丸跡

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