学力消費社会による学校教育の崩壊

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脳科学者の茂木氏は、偏差値や大学のランクにこだわる教育の現状を批判しており、もっと「学び」とは自由なものであると主張されている。

偏差値や大学のランク重視の教育では、受験産業が発展して、ある種日本の学生の学力の高さを下支えしてきた面がある。受験産業とは、まさに学力消費社会において隆盛された産業である。簡単な話、塾がそれである。

塾が利益を出す為には、人を集める必要がある。人を集める為には、広告が必要である。広告には、宣伝文句となる分かりやすい指標が必要である。つまり、合格者数と偏差値である。偏差値の高い学校へ何人の合格者を出したか?が塾にとっては死活問題なので、それこそ必死に子供の学力を上げようとする。もちろん、子供も熱心な授業を受け、成績が向上して偏差値の高い中学や高校へ行くことを実現する事もあるだろう。希望する進路を選ぶ事ができるのだから、それはそれで子供にとって良い事であるのは違いない。が、日本全体で考えると、合格者というのは少子化の影響で減る事はあっても増える事はない。こうなると、塾も競争が激化し、過度に講座を開き、子供たちに勉強を強いる事になる。塾による際限のない勉強が加速していく。それはそれで塾の生き残りには必要とされる事であるので、受験残業という分野だけで考えると致し方ない。

しかしながら、この学力消費社会の象徴とも言うべき受験産業によって起こる悪影響がある。それは、公立の小中学校が崩壊している事である。もう少し分かりやすく言うと、公立の小中学校が塾と同化され、サービス業となった事である。更に言えば、学校を塾と同様に学力を向上させる施設であると考えられるようになった事である。

学校は学力の向上を目指さないのか?という批判も出てきそうであるので、誤解がないように言うと、学習内容を教える場ではあるが、塾のように有名な学校へ何人進学したとかを競うものではないという事だ。つまり、学校は数値としての学力の向上ではなく、学ぶ場であるという事である。学ぶ場であるので、テストで良い点がとれるかとれないかは一切関係ない。なぜなら、良くない点数を取ったにせよ、さまざまな学びがあるからである。

さて、学校がサービス業となる事がなぜ良くないか?を議論しよう。

学校が塾と同列のサービス業となった場合、子供はどのような毎日を過ごす事になるか。簡単である。毎日、学校でも塾でも家庭でも勉強しないと不利だ、だから勉強しろと言われるのである。学力消費社会において、塾は広告のために、また様々な講座を受講させるために、内申やテストをちらつかせ子供や保護者の不安を煽る。そして、利益を得る。保護者は、不安から子供のために叱咤激励する。

そのような保護者は、学校に対してどういう対応をするか。「うちの子の成績が上がらないのは先生の指導や授業の仕方が悪い」「うちの子に合っていない」となる。なぜなら、学校の成績を上げる、内申点を上げる為にお金を払って、良い高校へ多くの合格者を出している塾に行かせているのに、成績が上がらないのはおかしいという考えになるからだ。つまり、塾にお金を払っているのだから成績は上がって当然だと思っているのである。

この思考は、ものの消費社会と同じである。つまり、こうすればこうなるという単純な因果関係で物事を捉えている。ものの消費社会では価格の高いものは良いものであって当然である。だから、高い塾の受講料を払っているのだから成績は上がって当然であるという思考になる。

こうなると、成績が上がらない原因を他に求める事になる。それが学校なのである。なぜ学校に対して、原因の矢印が向くのか?それは公立学校は無償だからである。学校の先生には授業料を払っていないから、成績はその対価としての結果ではない。厳密には、保護者が授業料を払わない代わりに国が教科書から何から払っている。が、当の保護者はそんな事は全く意識していない。税金を払っているにも関わらずである。

これは、学校の先生たちからしたらたまったものではないだろう。受験産業があるせいで、勝手に自分たちが悪者にされるのである。これが、学校教育の崩壊の一側面である。もちろん、この受験産業による成績が上がらない原因の矢印が塾に向く事もない事もないが、それ以上に学校以外では子供に直接矢印が向く事が多い。なぜなら、成績が上がらないという事は、費用対効果がないという事なので、子供が手を抜いている、真面目に勉強していない、または勉強時間が足りないと考える。勉強時間は確かにかつてより少ないというデータがある。その原因は、スマホやゲームである。しかし、このような消費社会を作ったのは誰か?大人たちである。大人が儲けをだすための社会で生み出したものである。

少し話がそれてしまったが、学校教育の崩壊の二つ目の側面は、学校が自ら塾化している事である。これはどういう事か?前回の記事でも述べたが、公立の学校同士や自治体同士が、学力を競い合っているからである。そう、競い合っているのは全国学力学習状況調査である。平均正答率が全国で1位であるとか、平均正答率より低いとかを比較し、その原因は何か?を文科省は必死に分析しようとしている。その分析に従い、改善を学校で行う。そして、自治体や学校が数値としての順位にこだわるようになり、名目は将来の為に勉強するべきだと言いながら、真の目的は自治体や学校の順位の向上である。つまり、順位が上がれば学力が上がったとみなされるようになる。そして、そのための授業を教師が行うようになり、果てには全国調査の過去問を解いたりするようになる。これはまるで塾のやり方ではないか。しかし、これが現実であり、全国ニュースにもなった。これが学校が塾化し崩壊しているという二つ目の側面である。

さて、保護者の方々は、自分が小中学生だった時はどうだったかを考えて欲しい。宿題やテストは合ったが、テストをしては解き直しをして提出して、テストの為のテストや、定期テストの過去問を解いたりした記憶はあるだろうか?いちいちスケジュール管理の指導を教師に受けた事はあるだろうか?おそらく、ない。つまり、子供たちは保護者が子供の頃よりも圧倒的に勉強を強要されている。もちろん、学校の先生たちは進んでそうしているわけではない。文科省が全国調査の分析を通してや、自治体の独自テストなどにより、不安を煽られているからである。どのような不安か?文科省や自治体は、暗に学力が低いのは、あなたの指導力のなさのせいだと言っているから、自分は子供の役に立っていないという不安である。全国調査などを通して学校の先生は塾化をされつつ、アクティブラーニングやICTの活用や、プログラミングなどを導入させてられている。文科省も予算をうったのだから、できるようになって当然だと考える。先生たちは税金を食い潰しているだけで少しも学力を上げていないと学力消費社会にどっぷり浸かっている官僚や教育委員会の人々から非難される。

そして、学校の先生は、勉強に疲れている子供たちと同じように、四方八方から不安を煽られ、非難をうけ、無限に増える仕事がある、学校教育に疲れている。だから先生も学校に行きたくなくなる。現に毎年5000人以上の教員が病気により休んでいる。そしてまもなく6000人に到達する勢いである。

現在では、頑張って指導したり授業の準備したりした事は、労働ではない自主的な活動である事が明らかにされた。そして、教師は成り手を失った。

学力消費社会において、学校教育はもはや崩壊していると言っても過言ではない。現に昨年度の4月の時点で全国で2000人以上の教師が不足している。この4月にはもっと増えるだろう。ある自治体では、35人学級を諦めた。教員免許のないものでも教壇に立てる自治体もある。

これを防ぐにはどうするか?

一つは、公立学校における競争をなくす事である。全国調査を数年に一回にし、順位の公開と平均正答率の開示をやめる。これはすぐにでもできるし、税負担も減る。

二つめは、公教育の無償をやめる事である。極論すれば1ヶ月あたりに100円でもいいから授業料を払うようにする。

そうすれば、100円しか払っていないのだから、学校で数値としての学力が上がらないのも当然だと保護者は考えるようになる。そうすれば、学校に対するクレームは減るだろう。そんな事はあり得ないと思われるだろう。しかし、無償というのは、ボランティアであると捉えられてしまう。教師は無償なんだから自ら進んでボランティアで過酷な労働しているんでしょ?ボランティアなのに、何を子供に偉そうに説教をしているの?という事になる。というより、現実そうなっている。なぜなら、消費社会、学力消費社会が根付いているからである。お金が全てだからだ。お金を払っていないのだから、何を言われても文句は言えないでしょうという考えだ。

だから、100円だけ授業料をとる。そうしないと保護者の意識は変わらない。

そして、三つめが教師に残業代をつける。
国としても、教職調整額の4%だけで、それ以上の残業代は支払わなくても良い。だから、文科省もあれやこれやの取組を遠慮なく学校現場に降り注ぐ。これを改めるには、教師を働かせるにはお金がかかるという認識を国に持たせるしかない。国もお金が全てだから、コストがかかるようになれば仕事を教師に余計に振らない。

以上、学力消費社会における学校教育の崩壊について述べてきた。

何度でも言うが、教育は消費社会の中にどっぷりとハマっており、お金というコストで教育を捉えていかなければならない。個々人の豊かな学びはある立場の者に有利なように数値化され、子供は学びから遠ざかり、教師は教育現場から遠ざかる。

意欲をなくした子供と意欲をなくした教師がいる学校で、一体何が育まれるのだろうか?

際限のない学力向上は無意味である。もはや学びの場としての学校の機能は崩壊している。

学力消費社会という見方で、現状を見れば、何が問題であるかが理解できるのではないだろうか。

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