『キリヤ・カリヤ』

30階建てのマンションが倒壊していくのが見える。
地響きと共に地面を割って頭をもたげた長虫の背に辛うじて残っていたマンションの残骸はもはやそこらを転がる石塊と同じだった。
「やはりあっちのルートを選ばなくて良かった」
双眼鏡から目を離して、父を見上げる。
繋いだ手にはかすかな怯えがあった。
「運が良かったね」
「そうだな。まぁ、例えこっちに来ても父さんが何とかするから心配するな」
しっかりと父の手を握り返すと、見当外れな声がガスマスク越しに浴びせられる。
とても心地良い善意のシャワー。
「うん」
父に笑いかけるが汚れたマスク越しに見えたかどうか分からない。私にも父の表情はよく分からなかった。
手を引かれて歩きながら、長虫に手を振ると彼が口を大きく開けてすぐに『ア゛ア゛ァァ!』と叫び声が聞こえた。
父は私を抱き上げて走り出す。もう一度手を振った。

父さんはいつでも優しくて、私はこの事を最期まで伝えずにお別れした。
私が幼い頃からもっていた感覚は父さんの病気には何の役にも立たなかったし、その時に得た無力感のお陰で私はまだ生きていた。
ベッドから天井を眺めながら、そこにのたくる紐のようなシミを目で追う。
懐かしい夢を見た。
今日はあまり良い日にならないだろう。
「父さん、今日は何か嫌な事があるの?」
サイドボードに置かれた父と母が描かれた色褪せた絵に触れる。馴染みの絵描きにまた描き直して貰わないといけない。
『ア゛ァッ』
くぐもった声が聞こえる床の蓋を開けると、12本足のミミズが歯を鳴らした。
背中の足が握っていた手紙に返信を書き込んで渡すとミミズは来た穴を帰っていった。発電機を回すと、あの日のマスクのガラスよりも汚れた鏡に私の浅黒い顔が照らし出された。
顔を洗って髪を適当に拭くとだいぶ気分は良くなったが小さな憂鬱は部屋の隅でじっと私を見つめていた。【続く】

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