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#006 私信仰〜この身体は私のものなのか?〜

私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身よりも大いなる何者かによってなされたような気がする。-ジェームズ・クラーク・マクスウェル

1.はじめに

意識について投稿してきたシリーズもいよいよ佳境。

今回は、これを読んでいる思考実験好きなあなたの、あなた自身への認識を180°ひっくり返すようなパラダイムシフトの話をしていこう。

それは、かつてコペルニクスが宇宙は地球を中心に動いているとされてきた世論に対して、地球は太陽を中心とした惑星群の中の1つであり、太陽系の中心は太陽だと主張した時かのように

あるいはダーウィンが、ヒトは神がデザインしたものであり、地球上に住むその他の動植物とは明らかに違う生き物だとされてきた西洋の世論の中で、ヒトも含めて地球上に住む動物は共通の祖先を持つ生物だと主張した時かのような、発想の転換を招くものになるかも知れない。

シリーズをここまで読んできたあなたになら少しわかってきたかも知れない。あなたの身体には、あなたの気付いていない何者かが同居していることに。

この記事が初めて?そんな方はこちらから。

先月遺伝子についてのアウトプットを行った。こちらもいずれ記事に起こしたい。

2.あらすじ

リベットの実験結果から得られた結論は、私たちの意思に先行して脳は活動を開始しているということ

また、咄嗟の判断が求められる時、私たちの身体は私たちの意識を置き去りにして行動を起こしていることもみてきた

意識の知覚には最低0.5秒の脳内ニューロン活動が必要となる
急ブレーキを踏むその行動に<意識>は介在していない

目は見えていないはずなのに、身体はそこに何があるかを知っている。

盲視”blind sight”の例では、意識の外の領域で何かしらの情報処理が行われ身体はその情報をもとに行動を起こしていることもわかってきただろう。

これは特別な環境や状況の人にだけ起きていることだろうか。
日常でも、意識が置いていかれている場面はある。
例えば、スポーツをしているとき、ダンスを踊っている時、演奏をしている時。その時、私の身体を動かしているのは私ではあるが私の意識以外の何者かだ。一体、それは何者なのだろうか?

3.<私>信仰

デンマークのジャーナリスト、科学評論家のトール・ノーレットランダーシュは意識と無意識についての働きを膨大な資料から推察した著作「ユーザーイリュージョン」(原著:Naerk Verden)において、この無意識の働きについてこう述べている。

<私>はその人の全てではない

私は、自分が自分の<私>以上のものであることを知っている

しかし、<私>はそれを認めたがらない。意識を持ち、考える<私>は、あくまで自分が主役であり、現に物事を牛耳っているものであり、管理者であることにこだわる。だがそれは出来ない相談だ。リベットの研究結果を真剣に受け止めるのであれば、それは無理な話だ。彼の研究結果は、意識ある<私>が人の行動を引き起こすのではないことを、はっきり示している。意識が禁止権を行使する暇などなく、<私>が蚊帳の外に追いやられるような状況はたくさんある。<私>は自分が行動していると思うかも知れないが、それは錯覚に過ぎない。

Tor Norrretranders -The User Illision : Cutting Consciousness Down to Size
邦題:ユーザーイリュージョン 意識という幻想

なんだって。私が自分で行動していると思っているこの感覚は錯覚に過ぎないらしい。
リベットの実験でも指を動かそうと思う250ミリ秒前には、すでに脳は指を動かせと活動を開始していることが明らかになっている。

これだとまるで俺らは自分達で何も決められないみたいじゃないか。
今日何を食べるのかも、明日どの服を着ていくのかも、仕事の休憩時間に(いや、多くの人にとっては仕事中も)どんなゴシップ話に花を咲かせるのかも全て俺ら自身が決めてないってことにも聞こえてくる。

3-1.俺たちに自由意志はないのだろうか

引き続きトール・ノーレットランダーシュの言葉を引用しよう。

リベットの実験は、人には自由意志などないという説を裏付ける究極の証明と解釈できるかもしれないが、それは誤った解釈だろう。なぜなら、選択行動が無意識に引き起こされるのは、自由意志が存在しないことの証拠だ、と言えるとすれば、それは<私>信仰という前提があるからだ。

リベットの発見した遅れが示しているのは、いつ行動を起こすかを決めるのが自分自身ではないということではない。肝心なのは、行動のプロセスを始めるのは人間の意識ではなく、他のもの、つまり無意識である、という点だ。決めるのは本人だが、決める力を持っているのはその人の<私>ではない。<自分>なのだ。

人には自由意思があるが、それを持っているのは<私>ではない。<自分>である。

Tor Norretranders -The User Illision : Cutting Consciousness Down to Size
邦題:ユーザーイリュージョン 意識という幻想

俺たちには自由意思はないのだろうか。という問いの背景には、意識というものがすべてを決めているという考えが根付いているのではないかと彼は述べる。

普段の行動の中で、意識が関与できないものは多くある。消化、免疫活動、血液循環、歩くこともどの方向へ向かいたいかは意識して決めているとしてもどうやって体を動かしているのか、までは自分の関与の外側の事柄だろう。(まずは陽腰筋と繋がる腱に神経から指令を送り収縮させよう、そこからハムストリングスへも指令を送り、、、)

3-2.<私>信仰

人には自由意思があるが、それを持っているのは<私>ではない。<自分>である。

ノーレットランダーシュは<私>と<自分>という言葉を明確に分けて表現している。そして、自由意思を持つのは<自分>であると主張しているのだ。<私>と<自分>について彼は、こう言及する。

私たちは、<私>と<自分>を区別しなくてはならない。<私>は<自分>と同一ではない。<自分>は<私>以上のものだ。<私>が決断しない時に決断するのは<自分>だ。<私>は意識ある行為者であり、<自分>はその人全体である。<私>に支配権がない状況は多い。たとえば、急を要する場合がそうだ。<私>の担当は、考える時間がある無数の状況だ。だがいつも時間があるとは限らない。

<自分>という言葉には、<私>、意識ある<私>、が引き起こすことのない、あるいは実行することのない、体の動きや精神作用全ての主体が含まれる。<私>という言葉には、意識に上る身体の動きや精神作用が全て含まれる。

<私>は、自分で思っているほど多くの決断を下していないことがわかる。<私>は、<自分>が行なった決定や計算、認知、反応を、自ら行なったような顔をしがちだ。それどころか、<私>は、<私>自身と同一でない<自分>の存在を頑として認めない。<私>にとって<自分>は得体の知れぬもの、説明のつかぬものであり、<私>は自らが全てを取り仕切っているふりを続けている。

あくまで自覚ある<私>は、<自分>を構成する一つの部分に過ぎないのかもしれない。<私>が決めることができるのは、<自分>が決定権を譲ってきた時だけであり、瞬間瞬間に決める出来事というのは<自分>が決めて、あたかも<私>が決めたかのように錯覚させられているということになる。

ではこの<私>はいつ生まれ、いかにして淘汰圧に打ち克ち、今俺らの中に居座っているのだろうか。

4.<私>の生まれた理由 受動意識仮説

慶應義塾大学大学院に所属している前野隆司氏は著書:脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説などで「受動意識仮説」という提起をしている。

受動意識仮説

受動意識仮説とは、意識とは従来考えられてきたように意思をトップダウン的に体へ指示する器官ではなく、脳内の複数の細胞、ニューロンが各事象に対して多種類の計算を行い、その結果導き出された回答と行動の結果を眺めて、あたかも自分が行動をしたかのように錯覚する器官だという説だ。

一聴では信じ難い話だろう。
だが、この説を細かくみていくと<私>という存在の起源が見えてくる。

進化の歴史からこの説を紐解いてみよう。

遠い昔、俺らの祖先がアメーバのような単細胞生物だった頃、その頃はまだ意識や記憶と呼ばれるものは機能には備わっていなかったと考えられる。

現代でも昆虫などを観察してみると、意識や記憶のようなものはないが感覚というものはあると思われるような行動をしている。

そう、俺らの遠い祖先には<私>というもの、意識は存在していなかったのだ

ヒトを含めた生物は"遺伝子の乗り物"(vehicle for genes)*1として常に2つの役割を背負わされている。生存繁殖だ。

生存のために生物(特に動物と定義されるもの)は食糧の確保自己の安全が行動目的の最優先事項として生きながらえてきたはずだ。
これらが最優先事項ではなかった種もこれまでの長い歴史の中で数多くいただろうが、これらの種は繁殖期まで生存できず、自らの遺伝子を残す機会を失っている。自然淘汰の憂き目に遭ってきたのだ。

この環境の中で、俺らの祖先はこの生存のためにある機能を獲得してきた。(”獲得した”と記したが、正確にはこの機能を持った種が結果的にその自然環境において生存に有利に働いたということだ)

それは感覚器官からの情報の集積機能「記憶」だ。

記憶の獲得は生存に有利に働いた。
---ーーー昨日ここの樹木に実る果実を採っているので、今日はすでになくなっている。同じ場所に行くのはエネルギーのロスだ。だから別の場所の果実を探しに行こう。
---ーーー森を散策している時に、黒くて体毛の生えた爪の長い動物と鉢合わせた。あれには以前仲間が襲われて死んでいる。この動物は危険だ。逃げよう。

過去に感覚器官で得た情報を集積し、それをもとに未来の予測を立て自らの行動にフィードバックさせる。これこそが記憶の持つ利点であり、生存競争の中で自らの生存に有利に働かせる機能になっていった。

ところで記憶には種類がある。
wikipediaからの引用だが、スクワイアの記憶分類によると記憶は、感覚記憶、短期記憶、長期記憶の3種類に大別される。

長期記憶の中には、意味記憶エピソード記憶と呼ばれているものがある。

意味記憶とは事物、事象の一般的知識や言葉の意味についての記憶である。1966年に心理学者のマックス・キリアンが提唱した。

wikipedia 記憶

エピソード記憶(エピソードきおく、episodic memory)とは、宣言的記憶の一部であり、イベント(事象)の記憶である。エピソード記憶には、時間や場所、そのときの感情が含まれる(感情は記憶の質に影響する)。自伝的記憶はエピソード記憶の一部である。エピソード記憶は意味記憶事実概念に関する記憶)と相互に関連している。エピソード記憶は物語にたとえることができる(Tulving, 1972)。

wikipedia エピソード記憶

意味記憶とは、りんごは赤いと記憶するということであり、食べられるということであり、禁断の果実ということであり、白雪姫が老婆から受け取るものということだ。

一方でエピソード記憶とは、子供の頃りんご園に行った時にハチに刺されて痛かった、その後りんご狩りをしたけど全然楽しくなかった。という一連の情報とその時に感じた感情の集まりのことである。

そして意味記憶と比較してエピソード記憶にはある因子が必要となる。
<私>という存在だ。

エピソード記憶は情報として定着しやすい。それは自らの生存と密接に関連する場合が多いからだ。そしてエピソード記憶にはその感覚を経験する主体が必要となった。それが<私>と呼ばれるものであり、意識なのだ。

これらは仮説の域の話だ。俺らは少なくとも現時点では過去へ戻ることはできないし、過去の人たちの中へ入り込むこともできない。実証のしようがない課題だ。
しかし、ここまでの話はどう聞こえたであろうか。辻褄があう、腑に落ちる点が多いのではないだろうか。

<私>とは<自分>というものが生存競争に勝ち残るために作り出した機能の一部なのかもしれない。

5.まとめ

ここまで5回にわたり、意識の届かない領域で起こる事象について具体的な事例を挙げてみてきた。

そこで見えてきたのは、意識というものを包み込む大きな無意識の存在<自分>というものだ。
俺たちは、生まれた直後の記憶、物心つく前の記憶は思い出せないが、いつの間にか<私>というものが脳という器官を使いトップダウン的に体の各器官に指示を出していると錯覚を起こしていたのではないだろうか。

この記事で取り上げてきたのは、<私>という意識の領域は俺たちサピエンスがここまで自然競争の中で生きながらえるために備えた機能のひとつだという説だ。

<私>以外の存在に、不安や恐怖を覚える人もいるかもしれないが、俺はその必要はないと考えている。なぜなら意識の及ばない<自分>でさえ<私>と同じ個体の中の一部分であり。生物の究極的目的、生存と繁殖を達成するために共存している協力者なのだから。

次回は意識と無意識についての話の最終回。これまでの事柄をどのように解釈して普段の生活に活用していけばいいかの提案をしていきたい。

では。

参考文献他

・ユーザーイリュージョン(トール・ノーレットランダーシュ:紀伊国屋書店:)
・脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (前野隆司:ちくま文庫)
・利己的な遺伝子(リチャード・ドーキンス:紀伊国屋書店)

*1 リチャード・ドーキンスは彼の著作The Selfish Genes(邦題:利己的な遺伝子)の中で我々の体は遺伝子の乗り物だと謳っている。


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