解雇規制の緩和と労働市場の流動化は関係がない(自民党総裁選)
急に話題にされた解雇規制の緩和
自民党総裁選への立候補表明会見で、小泉進次郎氏が解雇規制の緩和に言及して話題になっています。河野太郎氏も、労働市場の流動化に向けて解雇規制の緩和に意欲的であると表明しています。
ジョブ型とメンバーシップ型
解雇規制の緩和、ということを考えた時に、両者が念頭に置いているのはアメリカだと思いますが、日本とアメリカでは根本的に雇用慣行が異なります。以下の記事で述べた、ジョブ型とメンバーシップ型の問題です。
日本において解雇規制を緩和したところで、果たして労働市場が流動的になるのかというとはなはだ疑問です。河野氏が想定しているのは、いわゆる外部労働市場だと思います。しかし日本においては、企業による強力な人事権がほとんどの社員に及び、異動を通じた極めて柔軟な内部労働市場が発達しています。
つまり、転職は少ないかもしれないけれど、社内での異動は多いということです。
一方でアメリカは、ごく一部の幹部候補生(トップスクールMBAホルダー)
を除いて、異動がありません(社内公募による転籍はありますが)。というか会社の人事権がほとんど及んでいません。つまり、労使双方気に入らないのであれば、職場を辞めるしかないのです。一方で日本は、職場でうまくいかないのであれば「異動」という選択肢があります。
これがジョブ型とメンバーシップ型の違いです。
メンバーシップ型において解雇規制の緩和は人事にさらに強力な権限を与えることになる
私はメンバーシップ型における解雇規制の緩和には消極的です。すでに「異動」という強力な人事権を持っている会社に「解雇」というさらに強力な人事権を付加することになるからです。
それによって、上司がさらに神格化され、残業・パワハラなどの問題が深刻化し、精神の隷属化を生むのではないかと危惧します。
労働市場を流動化させるなら、企業が多くの社員に対する人事権を手放し、ポストごとに雇用するジョブ型に切り替えるのが筋が通っています。
例えば筆者が身を置く大学教員の労働市場はジョブ型で、私は立命館大学の「社会統計学」「コミュニケーション論」を教えるポストについているだけです。立命館大学は、私を他の科目担当(例えば「フランス文学」
など)のポストに異動させる権限を持っていません(正確に言うと権限はあるかもしれませんが行使されません)。立命館大学の産業社会学部から上記の科目がなくなれば私は失業するでしょう。それでも労働市場は流動的なので、他の大学の似たような科目担当の仕事を探すことができます。
しかし、メンバーシップ型においては「他でうまくやれなかった」ということがスティグマになり、転職も難しいです。採用担当に、「異動とかではどうにもできないほど会社になじめなかったのか」という印象を与えるからです。
ジョブ型とメンバーシップ型においては転職の意味合いが異なります。メンバーシップ型においてはそれはより深刻にとらえられてしまうのです。
解雇規制の緩和≠労働市場の流動化
そもそも、解雇規制を緩和したからといって労働市場が流動化するわけではありません。例えば大陸系欧州などでは、解雇規制が厳しいですが労働市場は流動化しています。
これはなぜかというと、個人がスキルアップして給与アップしたくても、社内に適したポストが空いていないからです。人の能力に応じてポストを与える日本企業とは異なり、欧米ではポストありきです。ポストの数が最初から決まっていて、それぞれのポストに適した人を採用するのです(例外的に日本でも大学教員はその仕組みです)。
なので、欧米企業ではポストをむやみに増やすことはできません。個人の能力が上がっても、受け皿がないのです。というか企業に人事異動の権利がないので、少なくとも部署をまたいだ昇進や異動は困難です(例外は社内公募)。そのため、意識が高い人は社外によりよい条件のポストを求めて転職活動を行うことになります。
これが労働市場の流動化です。
日本企業は、いくらでもポストを作れてしまいますから、そもそも労働市場を流動化する必要がありません。なぜなら社内で問題なくキャリアアップできるからです。まして解雇規制を緩和する必要もありません。
以上のように、労働市場が流動的かどうかは、柔軟な内部労働市場があるかどうかに依拠しており、解雇規制の緩和とはあまり関係がないように思えます。
もちろん内部労働市場に閉じたメンバーシップ型雇用、人中心の組織設計は多くの問題(非正規雇用の周縁化、パワハラ・残業)をはらんでいますがそれはまた別の話です。