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今日だけは死への文句

今日、帰り道、そして思い出して今。
涙がすーぅっと、ぽたりぽたりと、なった。

”死”について考えていたからだと思う。


自分が二十歳になってから。とっくに人生の半分の感覚を超えて(ジャネーの法則的なそれだっけ?)、
成人として生きていくようになってから、
自分がいつまで生きるのかということが気になりはじめた。


もちろん死ぬということについて考えるのはもっともっと前からあったと思う。


ニュースや記事を読んで想う死。
育てていた生き物や植物の死。

今までいちばん近くに感じたのは、
宮崎にいるおばあちゃんとおじいちゃんの死。

ぼくにとって最後に見た記憶は、
どれも笑っている顔しか思い出せない彼らが、

もう動かないということ、
もう握った手を握り返してくれないこと。

この世には戻ってこないとわかったこと。

生きている限り死ぬということ。



こんなのあたりまえで、
これからも変わらないことで、
これまでもずっとそうやって地球は回ってきたんだと思うけど、

そのときは、そうか、優しくない世界だなって思った。

大切な人たちはまるでずっと一緒にいてくれるくらいたくさんの愛を伝えてくれていたのに、

それをぷつんと切ったような感じがしたから。



ただ、46億年も生きている地球の歴史の中で、
ほぼ生きてないといっていいくらいの短さの僕らの数十年の命、

どうして、その刹那に涙を流すことができる感情がこれまでずっと紡がれていることに儚さがあって、美しいっていわれるんだろう。
(儚いから涙流せるし、そんなかんじょうを持てるから儚い?)

でも、やっぱり僕には僕の感情が目の前のことで、
そんな俯瞰的に死を見れない。

今も、きっとこれからも起こるから、
常にそんな冷静ではいられない。

自分にはこれから、
まだまだたくさんの大事な人の死が待っているんだと思う。
とてもそれに耐えられる気がしない。

できればそんな死の存在に接したくない。

今一緒にいる人たち、今日一緒にいた人たち、
昨日一緒にいた人たち、
これまで僕と一緒にいてくれた人たち、
いま僕と一緒に生きてくれているすべての人たち。

最終的に死は美化されていくのかもしれないけど、
(というかそうしないと生きる人間の心が保てないのかな。)

いや、でもさ、
みんないなくなっちゃうなんて悲しいよ。
苦しすぎるよ。

なによりの暴力は死に向かわせしめる、
この生まれたことじゃんか、なんて怒ったりする。

この記憶は、最終的にどこに行くの?
僕が見て生きている世界だから僕主体の立場だけど、

いままでこのひとつひとつの神経細胞たちが受け取ったすべて。

僕が生られるようにするための電気にでもなってたか。
生きてる間に全部使えるのか。使ったから死ぬのか。

じゃあいま突然消えた命たちは。


あぁやっぱりいやだよ、みんな死なないで。
消えちゃわないで。ずっと血が流れる身体でいて。

生きていてほしいなんて僕のエゴだとは思うけど、

そうだよ。僕が悲しいから。耐えられないから。

そうやって言葉を吐く分にはいいんだいいんだ。

いつ死ぬか分からないから悔いなく生きようなんて言われても、
無理だ。だって死ぬのが嫌なんだもん。


死ぬなんて苦しいじゃん、悔やむじゃん、
生きることの失敗じゃん。

二度とやり直せない失敗じゃん。

生きる活力が死みたいなのは、
今日の僕には受け入れられない。

自分にとっても。みんなにとっても。


ハイデガーか誰かが言ってた。

実存の本来性は死への先駆けによって回復される的なこと、
死に正面から向き合うことで頽落な生き方から引き離されるみたいなの、
言いたいことはわかるけど、そんなの。
なんて悲しいの。期限があるから努力できる。

当たり前のようにハッピーエンドに持っていこうとしているけど、
期限になれば期限に殺されることが待ってる。

死んでも記録として生きた証が残っていたり、
誰かの記憶の中で生きるよなんてのも。

ダメだ。今日は、
綺麗事にしか聞こえない。

それで今まで人の心が救われてるのかもしれないけど、

結局2人は生きてない。一方通行すぎる。

片想いすぎる。交わしてこそ生だ。

じゃあ妄想でもしたらいいのか。
誰だよそいつってなるじゃん。

吐き捨てるだけで、
論理性も、収拾もつかない言葉をただただ置いただけでどうもないんだけど。

だれかこれをやさしく拭いてくれ ——

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