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偶景が映し出す、人とデジタルの間(あわい):苅部太郎写真展「Age of Photon/ INCIDENTS」雑想

一枚の物の影がそれを見る者の<生>の奥底のどこかで一点コレスポンドする、そのひそかな喚起力が写真なのかもしれません。
(中平卓馬「物の影の底にあるもの」―『アサヒカメラ』1969年12月号)

2020年2月8日土曜日、快晴。

前日まで食中りからの高熱で挫けかけていたのですが、なんとか体調を持ち直したので、とある写真展に行ってきました。

写真家、苅部太郎さんの個展「Age of Photon/ INCIDENTS」。この日は会期最終日で、運よく若林恵さんとのトークショーが催されており、僥倖でした。
いい話が聞けてぐるぐると思索が全身に巡り、終わった後に喫茶店に吸い込まれ、そこでノートに感じたことを殴り書きました。振り返り用も兼ねて、整理せずほぼrawの状態で、ここに置いておこうと思います。以下徒然感想文。

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偶景、複雑さとの出会い

「INCIDENTS(偶景)」。作品を観たファーストインプレッションは、正直に言うと「アートだ……」だった。
僕にはアートの知識がそんなにない。知識がないのをいいことに、解釈の努力から逃げている節もある。けれども、そこが僕の現在地であり、おそらくほかの多くの「アートってよくわからないな」と思っている人と同じ立ち位置でもある気がするから、ここからスタートすることに、意味があるのだとも感じている。
飾られている写真は、サイズの小さい写真データを無理やり引き伸ばしたような、あるいはモザイクで全面を覆ったような感じで、元々何が写っているのかわからないくらい、イメージが粗びかれている。いくら見つめても、何が写っているのか、やっぱりわからない。ただぼんやりと眺めた。15秒ほど見つめて、次の写真に進む。全部見た後で、最初は、とくに何も残らなかった。それが悔しくもあった。

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その後、苅部さんと若林さんのトークを聞いた。驚くほどに、この話を聞いてから、写真の見え方がガラッと変わったのだ。それは後述するとして、どんな話を聞いたか、覚えていることを、さらっとメモしておきたい(後註:うろ覚えだったので、私の個人的な解釈も多分に混ざっている)。

・デジタル時代は、人間のすべてをアルゴリズムに最適化させようとする傾向が強い。
 数の論理が人間の思想や行動を一律に誘導する。
 あらゆる事象を数値化し、再現可能性の範疇に落とし込もうとする。

・再現可能性への傾倒は、再現不可能性を潰してしまう。
 現時点での再現可能性の檻に閉じ込められてしまえば、革新的な何かは生まれない。
 再現不可能性とは、生物にとっての進化、生存戦略の要である。

・苅部さんのこの作品は、世界の複雑性の表現。
 デジタル的表象(テレビのグリッチ)を写すことで、却ってフィジカルな複雑性を取り戻している。
 その相反性に、この作品の面白さがある。

・再現不可能性とは、複雑性の中から生まれる。
 複雑な世界は、自分にわからないこと、手に負えないことばかりで、正直しんどいことも多い。
 けれども、世界はこれからもずっと複雑だし、だからこそ面白い。
 これからの世界、安易な単純化に抵抗しつつ、複雑性をいかに享受していくかが大切だ。

「なるほどー!」と思った。デジタルとフィジカル、単一性と複雑性の境界を意図的に曖昧にしているのか。その前提を持って、もう一度作品の前に立ってみると、見え方、感じ方がずいぶん変わったのだ(後註:筆者、この時点で「グリッチ」が何なのか、よくわかっていません。恐らく何かと勘違いして「なるほど」とか言ってますが、論旨にはそこまで響かないので、大目に見てやってください)。

話を聞いてから写真を見て、大きく感じたことは、以下の2つ。

ひとつは、「デジタル的な単純化とは、物事をこうもうやむやに見せてしまうものなのか」という気づき。
単純化された、わかりやすく加工された表象とは、実は見せかけの“答えっぽい何か”を無理くり幻像させているだけなのかもしれない。世界はどちゃくそ複雑で、おいそれと唯一の答えなんて出せないことばかりだ。それなのに、なんだかうまいこと整理された風のコンテンツをさらっと触って「なるほどそういうことね、よくわかりました」と言ってしまうのは、今この目の前にある苅部さんの作品を見て「ここには○○が写っているのですね、なるほどわかった」と言い切ってしまうのと、ほぼ同じなのだろう。
わかりやすくするとは、この作品のように、「解像度を落とす」ことから免れられない。世界は複雑で、複雑な世界を誠実に伝えようとするならば、どれほどの言葉やイメージを投入しても、決して足りることはない。単純化されたものを見てわかったつもりになることは、「1+1=2」を知って、「2になるのは1+1だけでしょ」と決め込んでしまうような行為だ。そういう決め付けが、私たちの頭の中には、たくさんあるのだろう。自省。

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Taro Karibe official siteより)

もう一つの気づきは、面白いことに、一つ目と真逆とも言えるような、「あ、デジタルって敵じゃない」って感覚だった。むしろ、複雑性や多様性を可視化してくれる、尊いツールだよなと再確認させてくれた。
私たちが普段見ている風景は、見慣れ過ぎていて、いとも容易く、当たり前に調和が取れているように感じている。毎日歩く通学路、通勤路の景色を見て、いちいち「すげえ複雑だ……」なんて思いをめぐらしたりはしないだろう(それはそれでめっちゃ疲れる)。けれども実際、私たちの目の前にある景色の中では、複雑なたくさんの要素が織りに織り重なっていて、よくわからんがおそらく何やら奇跡的なバランスでもって、成立していたりするのだ。
この作品は、普段は認知の外にある、景色の中にある複雑な要素の一つひとつを、可視化しているのかもしれない。調和して“ひとつ”に見えていた景色の裏に潜む、ごちゃごちゃとした複雑性を、デジタルのシグナルが分解して浮かび上がらせている。
思えば当たり前なのだけれど、デジタルが発達したおかげで、私たちは広く繋がれるようになったし、広い世界を知れるようになった。アナログでは容易にアクセスできなかった世界に、意志さえあれば、触れられるようになった。もちろん、デジタルがリアルをすべて代替することはできないが、リアルで生きる私たちの視野を拡張させる“ひみつ道具”として捉えた時に「デジタルツールなんて最初からなければよかった」と言う人は、ほとんどいないだろう。アルゴリズムのバイアスさえ注意深く掻い潜れば、その先に広がるのは、複雑で果ての見えない情報の海なのだ。泳ぐ場所さえ間違えなければ、そこは世界の複雑性を垣間見るのに、格好の場所となるだろう。
ツールはツールでしかない。あとは使う人間次第だ。

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……そんなことを感じた次第だ。

そして、最初に「何が写っているかわからない」と感じたのは、「そこに確かな“何か”がひとつふたつ写っているはずだ」という自身の思い込みから来るものだったと気づく。
写真にりんごが写っていたら、それはりんごだけを写した写真なのか?
写真に人が写っていたら、それは人だけを写した写真なのか?
きっとそんなことはない。写真家が意図しようと意図せずとも、そこには写した“それ”だけではない、もっと複雑な世界自体が写り込む。
そう思い直して作品を見つめると、全然違って見えてきた。
一つひとつの色の粒、その繋がりから、解像度の高い写真からは決して立ち上がらないようなイメージが、ぼんやり匂う。それは像を一点に絞らないで眺めることで浮かび上がってくるのだけど、それ自体を明確に見つめようとすると、すっと引っ込んでしまう、アレだ、寄り目で見ると立体的に見える怪奇なホログラムっぽい絵(黒い点が絵の上にふたつ打ってあるヤツ)、あの感覚に近い。

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……なんかいかにもわかった風な言葉を並べてしまったが、ぶっちゃけ、だからと言って「この作品から真理が見えたぞ!」なんてことはなく。何かを見ようとせずにじっとに眺めていると、波打つように、時折ぞわっとした感覚が訪れたから、多分何かを受け取ったのだろうけど、いかんせんそれは複雑すぎて言語化できないのです。笑
今はそれでよしとしよう。言葉で簡単に言い表すことができないことこそ、これから私たちが尊んで、大事に守っていくべき複雑さなんだろう。複雑なまま受け止め、無理くり言葉にしないで、味わうことも大切だよきっと。そんなことこそ、苅部さんがこの作品で届けようとしたメッセージなのかなと、私は勝手に解釈したので、ふわっとしたまま、そのまま持ち帰ります。
(感想乱文ここまで)

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「INCIDENTS」を含め、苅部さんがこれまでの遍歴と作品の背景を語っているインタビューがアップされています。ご興味を持たれた方は、下記ぜひ読んでみてください。

苅部さんの公式HPはこちら。
https://www.tarokaribe.com/

あと、「世界って複雑だけどさ、それが大事なんだよね」ってことについて、前にすごい佳きやつを書いたので、こちらも俄然読んでほしいなあ、というお願いをして、お開きにしたいと思います。ここまでのお付き合い、大感謝でした。

“…つまりは「多様性が重要だ」という話に繋がってくるのです。個々の挙動が多様であればあるほど、結果的に見て、個人レベルの幸福度も上がるはずです。なぜなら、全体のためと強要されればされるほど、個人の幸福度は下がりますから。
一人ひとりが「こうしたい!」という個人的な妄想を抱いて、バーッと散り散りに走っていく。その行き先がいろんな方向をカバーしていれば、社会全体として存続していく可能性が高くなります。みんながみんな「こっちがいいよね」と同じ方向に走っていった場合、それがもし間違っていたら、全員が一斉にこけてしまう。そういう事例は、歴史的にもたくさん起きていますからね。” (下記記事より引用)


より佳く生きていこうと思います(・ω・)