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iQOSを燻らせながら考えた

なんと初っ端から爆弾をぶちかましてきましたね、verdeさん。『愛』についてですかぁ。難題ですねぇ。今日(13日の金曜日)は妻の付き添いで病院の待合室で、verdeさんの日記を読んで頭を抱えましたよ(笑)「難題すぎる!」って。
しかし、「iQOSを燻らせながら」って格好つかない思考スタイルだなぁ。

まぁ、うまくverdeさんの質問に答えられるかどうかは、分かりませんが書いてみますか。できるだけ短く。


『愛』について考えるとき、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』は、よく手に取られる本だと思います。しかし、多く読まれながらも誤解も多い著書かなぁなんて思います。フロムについてもちょっと注釈をつけてみましょうか。書いた人の経歴を見れば、なぜその本が書かれたのかのヒントにもなるでしょう。


エーリッヒ・フロムは1900年、ドイツにてユダヤ教正統派の両親の間に一人っ子として生まれました。そして、フランクフルト大学に入学しますが、1年でハイデルブルク大学に移り、ここで社会学・心理学・哲学を学びます。ここからフランクフルト学派という流派に属しますが、のちにフランクフルト学派から離脱します。フランクフルト学派とは、フランクフルトの社会研究所で活躍した学者や、それと結びつけられる批判理論のことで、フランクフルト学派の提示した重大な問いとは、「なぜホロコーストのような出来事がヨーロッパの高度な文明社会で起こったのか」というものです。

この時期のフロムの功績として挙げられるのがマルクスとフロイトの思想統合を成し遂げてゆくということです。フロムは生涯の中で3度の結婚をし、1980年にスイスにて死去します。

(ちなみに私の大学院時代の恩師はフランクフルト学派における美学について研究しており、穏和ながらも聡明な研究者の方でした。でも、研究指導のときは、冷徹かつ的確に私の胃を捻りあげる方でもありました。もちろん、論文をより良くするための優しさからでしたが、私にとっては緊張・萎縮・恐れの時間でした。)

閑話休題。話が逸れました。フロムの話に戻りましょう。『愛するということ(The Art of Loving)』は、1956年に書かれました。邦題は『愛するということ』ですが、原題には「The Art」とあります。この「The Art」の訳語は、「絵画」ではなく「技術」という意味なのです。つまり、この本は直訳すれば『愛する技術』となるわけです。『愛』そのものよりも、「技術(テクニック)」に重きを置いた書物なのです。この邦題と原題の差が、誤解を招く元となっているのです。誤訳というよりは、読者に手に取ってもらうためのタイトル付けだったのでしょう。

ですから、本書は『愛』についてというよりは、「愛する技術」について書かれたことだということを知らずに読むとちんぷんかんぷんなのです。生まれる誤解は2つ。『愛』について答えをだしてくれるだろうという期待感、もう一つはどうしたらすべての人を愛せるかについて教えてくれる本なのではないかということ。本書にそれらの答えを探しても見つからないのは当たり前なのです。だって、フロムはそんなこと、この本の中には書いていないのですから。

愛は与えるものとよくいいます。しかし、フロムは真に人を愛するためには、愛するための技術(Art)が必要であるといいます。親子の愛、友愛、母性愛、恋愛、自己愛、神への愛と様々な愛を対象だけではなく、現代の社会構造にも本書は言及していきます。それによって読者は「フロムはなにが言いたいんだ?」となるわけです。

フロムの最終的な結論は次のようなものです。人を愛するには、愛するしかない。経験を積み、愛する技術を獲得していけ、というのです。「いかに愛されるか」は相手次第であり、自分の制御は及ばない。しかし、「どう愛するか」は自分次第であり、自分の意思でその技術を身に付けることが出来ると主張するのです。

「人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである」とフロムは書いています。

また、愛とは、特定の人間に対する関係ではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度や方向性のことであると書いています。つまり、愛するためには、自分自身が成熟した人格と愛を生み出せる能力を備えなければならない。自分自身の人生が充実していなければならない。そうでないと、自分自身を相手に与えるのが怖く、従って愛する勇気も持てないということになるのです。

ふ〜。エーリッヒ・フロム『愛することについて』の詳細な中身については入り込めませんでしたが、注目ポイントは示せたのではないかと思います。長くなっちゃいましたね。すみません。

そういえば昨日、やっと原作・芥見下々の「呪術廻戦0」の映画を見たんです。

その中で指導役の五条悟が受け持ちの生徒である乙骨憂太に「持論だけどね、愛ほど歪んだ呪いはないよ」と言うシーンがあるんです。愛って純粋なんですかね?五条の言う通り、「呪い」なのかもしれません。フロムとは正反対の意見ですが、一理あるなぁと私は思ってしまいました。

それとverdeさんの幼い頃の交換日記体験、すっごく面白かったです。小学校のときからverdeさんは、人をよく見てるんだなぁとしみじみ思いました。それに比べて自分の小学生の頃なんて、なんとアホだったことか。本を読むことは好きだったけど、書くことなんて考えもつかなかったなぁ。読書感想文なんて大の苦手で、大嫌いでした。日記?長期休みの宿題に出る「日記を書いてこい」という宿題なんて、適当にでっち上げて書いてましたからね。

ということで、長くなってしまいましたが今回はここら辺で切り上げたいと思います。

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