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コロンブスと善悪のお話

全くもってコロンブスが想像しなかったであろう展開で、日本国内でコロンブスのパブリックイメージが下がるような出来事があったものだから、感じたことを少し書き連ねてみる。

その前に、コロンブスに関する情報を。知ってる人は読み飛ばしてもらってOKです。

コロンブスの船出

コロンブスと聞いて皆さんが想起するのはやはり、新大陸の発見であろう。この時代、キリスト教的世界観が強く、地球が球体であることでさえ信じられていなかったヨーロッパ社会。西へ進むとそのまま転落すると恐れられていた。しかし、トスカネリが地球球体説を唱えたことで、コロンブスはそれを頼りにスペインから西へと船を進めることができたのだ。

ではなぜ、彼は冒険する必要があったのか。

簡潔に答えると、インドに行きたかったから、ということになる。
これを理解するのにはいつくかの前提知識が必要だ。

1. ヨーロッパ諸国はアジアで生産される香辛料に興味があった
2. ヨーロッパとアジアの間には巨大なイスラーム国家(オスマン帝国)が存在した
3. ヨーロッパは地中海交易圏を通じて、イスラーム商人から間接的にアジアの産品(香辛料など)を手に入れていた。
4. スペインとポルトガルは世界の覇権を争っていた
5. ポルトガルはアフリカの希望峰を廻り、インドを目指していた

https://rekisiru.com/14556

イスラーム商人を介して交易すると、どうしても商品は割高になってしまう。だから、スペインはアジアの産品を直接手に入れるため、ポルトガルとは異なる航路でインドに到達する必要があったのだ。そして、あわよくばインドをキリスト化することでオスマン帝国を挟撃してやろう…なんてことも。

そのためスペイン国王イサベルは、スペインから西へ進み、インドへ行くことを目指した。そうしてコロンブスらが派遣された。もちろん、その時はインドとの間に大きな大陸や太平洋が存在するなんてことはつゆ知らず。

新大陸の発見

コロンブス一行は、無事にインドに到達した。と、彼らは思った。

彼らはとある島に上陸した。少し先に見える大きな陸地はインドだろう。ここはインドの西にある島だ。そう思い、彼はこの島々を「西インド諸島」と名づけた。この名称は今でも残っている。

皆さんご存知の通り、この島は西インドなんかでは全くない。ただ、彼らは本気でインドに到達したと思ったのか、はたまた人間の、信じたいものを信じる傾向にある性分のせいなのかは分からないが、彼らはインドに到達したと思い込んだ。1492年の出来事である。

あっけなく感じるが、これが後の歴史を大きく変えることになる世紀の大発見の事の顛末だ。

もし彼が西に向けて出発していなければ、今の世界は想像もつかないほど変わっていただろう。
ヨーロッパのその後の発展は間違いなく新大陸という広大な植民地・市場に支えられたものである。もしこの発見が遅れれば中世然としたアジア優位の世界がより長く続くことになっただろう。世界の発展は大幅に遅れ、何よりアメリカという超大国は誕生すらしていなかったかもしれない。

もし、発見が遅れ、新大陸がスペイン以外の国の手に渡れば…
ポルトガルが発見していた場合トルデシリャス条約なんてものはなく、当時の覇権はポルトガルが完全に掌握するだろう。ポルトガルが「日の没することのない帝国」として繁栄を極め、ハプスブルク家をも手中に収め、そして、もしイギリスの無敵艦隊に勝利していたら…
その後のイギリス覇権は大いに立ち遅れ、産業革命はうんと遅かったかもしれない。そもそもイギリスがアメリカに植民できないかもしれない。そうなれば現在世界で最も多く話されているのはポルトガル語…

逆に、イギリスが新大陸を発見していれば世界の文明の発展は加速していたかもしれない。

歴史に「かもしれない」、「if 」なんて持ち込んでも意味のないことは重々承知だ。だが、本当にその後の人類の進む航路の舵を切るようなことを彼はやってのけたのだ。コロンブスは1492年に西インド諸島に到達した。このことが世界中から大いに賞賛されるべき偉業であることに間違いはない。

実際、歴史家ド・ランシーは彼のこの発見を「キリストの十字架による死以後、人類の歴史上最大の出来事」だと評した。

ただ、新大陸発見以後、コロンブスが行ったことは、略奪と虐殺だ。
彼はアメリカ先住民(インド人だと思っていたためインディオと名づける)を下級民族とみなし、略奪や強制労働を行わせた。その際、殺害することも意に介さず、反抗する先住民を徹底的に弾圧した。

これはその後の植民地支配のモデルとされ、銀山・プランテーションでの強制労働や奴隷貿易につながっていく。

コロンブスの交換

当然のことながら、新大陸と旧大陸では全く異なる動植物が存在した。
まず、新大陸の先住民は、馬や小麦・バナナ・サトウキビというものを知らなかった。騎馬で攻めてきたヨーロッパ人を見て先住民は腰を抜かしたことだろう。
逆に、旧大陸の入植者たちは、トマトやジャガイモ・カボチャ・トウモロコシ・タバコ・アルパカといったものを知らなかった。
イタリア料理のトマト、ドイツ料理のジャガイモなどの印象は強いが、実はヨーロッパにトマトやジャガイモが伝わったのはコロンブス以降なのだ。
そして、ジャガイモやタバコはその後のヨーロッパ歴史世界を変えるような役割を果たしていくことになる。

コロンブスの交換は動植物だけにとどまらない。
ヨーロッパ人がすでに免疫を獲得し、下火になっていた天然痘やチフス・ペストといった病原菌は新大陸には存在しなかった。かつてこれらのウイルスが旧大陸の多くの人々を長きにわたって苦しめたのと同様に、病原菌は新大陸に広まり、先住民の大量死を招くこととなる。このことはヨーロッパ人による植民活動をさらに容易にさせた。
一方旧大陸には梅毒などが持ち込まれた。

コロンブスの卵

コロンブスの卵という逸話がある。ご存知の方も多いだろう。

コロンブスは要は、たまたま西へ船を進めたところ、新大陸を発見した。そう、「たまたま」。だからこそ、彼を妬む人たちは多かった。「たまたまじゃないか」「誰でも出来る」とコロンブスを揶揄した。
そこでコロンブスは、「卵を机の上に立ててみろ」という。コロンブスを妬む人たちは挑戦するも、誰一人として成功できなかった。コロンブスは卵を軽く叩きつけて底を割ることで卵を立ててみせた。これに対し、人々は「そんなのズルい!」「そんなこと誰だってできる!」と捲し立てた。
コロンブスはこう言った。「確かに簡単なことかもしれないが、それを最初にやるこが難しいのだ!」
彼は自身の航海をこう喩え、自身の偉業を説明した。それは今でも語り継がれている。

善と悪

コロンブスは長年、新大陸を発見した英雄として描かれてきた。しかし、その潮流はここ何年かで変わりつつある。アメリカではもっと早く、1980年代には彼の悪行が取り沙汰されるようになってきた。
理由は単純明快で、先ほど述べたようにアメリカ先住民からすれば彼はただの侵略者で略奪者で差別主義者で…といった理由だ。
アメリカで黒人差別に対する反対運動が高まっていた数年前、コロンブス像が相次いで破壊され、日本の歴史の教科書でもコロンブスの負の側面も取り上げられるようになってきた。
彼が名づけた先住民の「インディオ」「インディアン」という呼称も差別的だとして、「ネイティブアメリカン」という呼称に変更された。

この世に絶対的な正義が存在するかと言われれば、NOだ。

桃太郎ですら、本当に正義なのか分からない。鬼の立場からすれば一族を皆殺しにした極悪人なのだ。
日本では天下統一を成し遂げた偉人とされる豊臣秀吉は、朝鮮からすれば侵略者だ。
無類の強さで人気高いナポレオンも、他のヨーロッパ諸国や中東・エジプトからすれば侵略者。
多くの日本人の命を奪った原爆は、アメリカではいまだに戦争を早く終結させたと評価する人も多い。
日本が推し進めた朝鮮・満州の侵略も、現地のインフラ整備に貢献したとの見方もできる。

今回の騒動で、コロンブスの負のイメージがかなり色濃く喧伝された。
だが、絶対的な正義が存在しないのと同様に、当然絶対的な悪は存在しない。
現代の価値観で考えないことは時に重要だ。
BRICSをはじめとする新興国が力をつけ、グローバル化が進み欧米中心主義的な時代が終わりを迎えようとしている現在と、コロンブスの生きた近世初頭では取り巻く状況や思考が全く違うことにも留意しなければならない。

コロンブスが侵略目的ではなく、偶然新大陸を発見してしまったこと。
意図せず相手のナワバリに入ってしまった動物は、「あっ…すみませんでした。すぐ帰ります。」と言っておうちに帰る。なんてことがあるわけない。ましてや言葉が通じない相手だ。お互いが夷狄なのであり、争いは避けられないだろう。
コロンブスは、新大陸に存在しなかったウマと鉄製の武器を有していた。この時点で西洋人の優位は明らかで、コロンブスらは先住民に対して武力支配が可能な状況だ。

「平等」が謳われるようになったのは近代以降だ。フランス革命以前、ましてや15世紀に文明も遥かに劣る先住民に対して、コロンブスが自分達の方が優等な民族だと錯覚することはおかしいことではない。

21世紀の我々ですら、文明が遥かに劣る民族に対して優越感を全く感じていないかと問われたら、答えに窮する人もいるだろう。

コロンブスがこの種の感情を抱くことはとりわけ責め立てられることではない。もしこれを否定するならば近代以前の大半の英雄は咎められることになる。
そして、コロンブスらは自分達が支配する側に回った。ポルトガルに対抗するため彼らは富を築かなければならない。新大陸には開拓されていない鉱山があまたあり、支配者が被支配者に労働を強いることは、人権を一切無視すれば合理的な行動ではある。

当時のヨーロッパに人権という概念がどれほど浸透していたかは専門家ではないためわかりかねるが、劣等民族と見做されていた先住民に対しての人権意識はほぼなかっただろう。先住民は守られるべき対象ではなかったのだ。

コロンブスの悪行は、歯向かう先住民が現れたことでエスカレートし、次第にスペイン本国からも疎まれることとなる。当時の価値観で考慮しても悪とされたのだから、よほどのものだったのだろう。

この世はグラデーションであふれている。色だけの話ではない。言葉にも、感情にもグラデーションがある。例えば、子供と大人は明確に分つことはできない。明確な区別があるように思える男と女でさえ、線引きが難しいことがある。恋と愛、海と河川、朝と昼、ポップミュージックとロックンロール、縄文時代と弥生時代、そして善と悪。
なんでも分類したがる世の中は構わないが、なんでも分類できると勘違いしていないだろうか。

ハリーポッターに詳しい方なら、「より大きな善のため」という言葉に聞き覚えはあるだろうか。より多くの人が幸せを享受できるなら、多少の犠牲は厭わないという考えである。
よく例えられるのは、「分岐した線路の先には片方には一人、もう片方には五人いて、レバーを引かなければ五人が犠牲になってしまう。レバーを引けば一人の犠牲で済む。あなたならレバーを引くか?引かないか?」という問いである。
この問題は意地悪だ。なぜならどちらの選択肢を選んでも間違いではないし、正解でもないからだ。ただ、より大きな善のために動くなら、レバーを引くことが正解となる。

よく善と悪は表裏一体なんて表現が使われるが、私はそうは思わない。オセロの白と黒のように表裏一体的に善と悪が存在するのではなく、善と悪は同一平面上に共存している。そこにはグラデーションが存在するだけだ。

善悪の区別は古来より宗教で語られてきたが、宗教は自らを正当化するために悪を生み出したにすぎない。本来善と悪は同質不可分的存在で混ざり合いながら共存する。

コロンブスの評価についても、近年悪が全面的に押し出されているが、善にも目を向けるべきであり、そのことを忘れているような人が多いなと感じた。称えるべき偉業と、非難されるべき悪行は、どちらかだけがクローズアップされるべきでは無い。

愛すべき名誉の負傷が、盛大に祝われる微妙が、大切なような。

コロンブスをただの悪と見なすのも、英雄としてのみ捉えるのもどちらも間違いだ。

自分の善の物差しだけで何かの価値を測らないこと。そして現代の価値観の物差しで歴史を見ないこと。自分自身への戒めも含めてここに記す。





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