奈良県_東大寺の大仏殿にとんでもない過去が__大仏さんの_柱の穴_鼻の穴と屋根_瓦_-の_由来_意味_歴史_

Vol.11 藤原氏④~仲麻呂と光明皇后

こんにちは。TKです。今日は、奈良時代の中盤、橘諸兄と藤原仲麻呂の時代について書いていきたいと思います。

1.橘諸兄政権


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737年に相次いで藤原四兄弟が世を去ると、皇族系の橘諸兄が政権に立ちます。(基本的に奈良時代は藤原氏と皇族や天皇の側近が政権を交互に取りあう感じです。)一方の藤原氏は四兄弟の跡継ぎがまだ若かったため、しばらくの間政権からは遠ざかります。

橘諸兄は政権に就くと、自分にとってジャマになりそうな藤原氏の一族を追い払うことにします。この中で、藤原広嗣も九州へと飛ばされることになりました。

2.藤原広嗣の乱

太宰府へと左遷された藤原広嗣(彼は式家)は、朝廷に不満を抱いて3年後の740年、天皇と諸兄の側近、玄昉と吉備真備を解任するよう求めます。
当然、これは聞き入れられず、広嗣はならばと反乱を九州で兄弟の綱手と起こします。これが藤原広嗣の乱です。

反乱はまもなく押さえられ、藤原広嗣と綱手は捕まり処刑され、式家はしばらくの間力を失います。

3.彷徨う朝廷と仲麻呂の出世

反乱はすぐ終わりましたが、その後も社会が安定せず悩んだ聖武天皇が遷都を繰り返すようになる中で、光明皇后は留守番として平城京にいた豊成よりも自分に同行させていた豊成の弟、仲麻呂(2人とも南家)を信任するようになります。

一方でこのころ聖武天皇は大仏建立に力を入れるためか、娘の孝謙天皇に譲位します。これを機に仲麻呂は光明皇后を背景に、政界で力を伸ばしやがては上の諸兄・豊成をしのぐようになります。

そして755年、聖武が病に倒れた時に、橘諸兄が聖武に不敬な発言をしたという噂が流れます。不問にしようとする聖武に対し、長屋王のことがあったのか、諸兄はまもなく引退してしまいます。こうして、仲麻呂は諸兄に代わり政権を取るのでした。仲麻呂は政権に就いてまもなくの757年、養老律令を施行します。これはどうやら祖父、不比等の権威付けだったとも言われます。

4.仲麻呂政権へ

それから一月が経った時に、橘奈良麻呂(諸兄の息子)が皇族たちと共謀してクーデターを起こそうとしていたことが仲麻呂の耳に入ります。これが「橘奈良麻呂の変」という事件です。

捜査が進められていく中で、小野東人という人物が反乱を認めると、仲麻呂は一気に関係者らを拘束し、奈良麻呂をはじめとする多くは拷問を受けて殺され、さらに仲麻呂は兄、豊成も捜査に非協力的だったことを理由に右大臣を辞めさせて息子と共に太宰府に追いやりますが、彼は処分に反対して別荘に引きこもってしまいます。こうして、朝廷に仲麻呂に逆らえるものはいなくなり、仲麻呂独裁政権が幕を開けます。

5.光明皇后の死

ところがその2年後、仲麻呂を支えてきた光明皇后が病に倒れてしまいます。
仲麻呂はそこで、皇后の死に備えるためか、孝謙天皇に代わり自分に都合の良かった淳仁帝を立てて、帝から太政大臣の地位と、恵美押勝(周りに恵みを与え、あらゆるものに勝った人の意味)という名前を受け取ります。

しかしそれからまもなく、光明皇后は世を去ってしまいます。仲麻呂は大きな後ろ盾を失ったのです。

6.恵美押勝の乱

光明皇后が死ぬと、代わって天皇大権を持つことになった孝謙上皇は、次第に権力者の仲麻呂と対立するようになっていきます。

そのような中で、孝謙はある日、病に倒れます。その時に孝謙の看護をしたのが、道鏡だったのです。

孝謙は回復すると、道鏡を側近として寵愛するようになります。当然これに面白くないのは仲麻呂。仲麻呂は淳仁天皇と共に、道鏡を追い払おうとしますが、これが余計に孝謙との関係を悪くしてしまい、仲麻呂は次第に追い詰められていきます。

追い詰められた仲麻呂は765年、ついに元皇族の氷上塩焼という人物を天皇に立て、反乱を起こします。これが、「恵美押勝の乱」です。

しかし仲麻呂は反乱に失敗して捕えられ、まもなく一族と共に処刑されます。そして孝謙は反乱の後に淳仁を廃位。さらに反乱に参加した皇族・貴族を次々と粛清。こうして恵美押勝の乱は幕を閉じるのです。

孝謙はまもなく称徳天皇として復位すると、道鏡を太政大臣禅師に就け、道鏡に政権を任せます。また、一方で失脚していた豊成を右大臣に戻し、北家や式家の人物も政権入りさせています。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。



















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