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Vol.10 藤原氏③~藤原四兄弟

こんにちは。TKです。今日は、不比等の息子たち、藤原四兄弟の時代について書いていきたいと思います。

1.四兄弟とは?

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藤原四兄弟とは、上の4人の事です。彼らは上から武智麻呂・房前・宇合・麻呂という名前で、後にそれぞれ独立して南家・北家・式家・京家の家を立てることになります。その中でも次男の房前は有能な家臣として高く評価され、父の生前に兄弟の中で一番早く公卿(議政官)に上がることになります。これは、一つの家から一人の公卿しか出せないという当時のルールを破るものであり、大きな驚きをもって迎えられたようです。
長男の武智麻呂は房前と比べると温和な性格で深い教養の持ち主でした。三男の宇合は遣唐使を務め、四男の麻呂は人柄に優れ、酒と音楽を好み、多くの友人がいたようです。

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2.長屋王政権と四兄弟

720年に不比等が世を去ると、不比等に代わって政権に就いたのは、四兄弟ではなく、皇族の長屋王でした。彼は、元明天皇の甥という血筋に加え、不比等の娘を妻に迎えていました。長屋王が政権に就けたのはこのような理由でした。

一方で、四兄弟は不比等の息子として長屋王政権の下でも順調に出世し、武智麻呂は公卿として中納言になり、宇合・麻呂も議政官の手前である四位まで昇ります。

しかし、四兄弟の出世は、長屋王にとっては当然不安材料になっていきます。加えて、このころには元明帝が世を去り、不比等の孫、首皇子が聖武天皇として即位し、聖武天皇の下に不比等の娘の光明子が入内し、加えて、元明帝は遺言として房前を天皇家の最高顧問である内臣に任命します。こうして、長屋王の地位が揺らぎ始めたのです。

そして727年、長屋王の地位を大きく揺るがせるような事態が起きてしまいます。このころ、国内では災害などが頻発していたため、聖武帝は天皇として勅令を出すことになり、それを長屋王が読み上げることになりました。
ところが、この詔で長屋王は災害の原因を天皇や官人たちに負わせて、激しく批判してしまいます。

天皇中心の国づくりを目指す時代に、彼が天皇の責任を指摘したことは、皇族とはいえ行きすぎでした。また、官人たちも職務怠慢を責められたことで、長屋王と溝が出来てしまいます。

ちょうどそのころ、聖武天皇と光明子の間に生まれた子供が世を去ってしまい、長屋王の家族たちが次期天皇として意識され始めます。ところが、これは四兄弟にとっては不安ですし、詔で周りと溝を作ってしまった長屋王にも良いものでは無かったのです。このような中で2年後、長屋王の変を迎えるのです。

3.長屋王の変

729年2月、長屋王が反乱を計画しているという情報が流れます。これを受けて朝廷は長屋王の自宅を包囲し、長屋王を捕らえて取り調べにかけることにします。これが「長屋王の変」です。

取り調べの結果、長屋王は自殺に追い込まれ、長屋王の家族たちもほとんどが自殺させられることになってしまいます。しかし、これほどの反乱計画にもかかわらず関係者のほとんどは許され、長屋王の家族でも不比等の娘、長娥子の子供たちは不問とされていることから、四兄弟の陰謀とも言われます。

4.藤原四子政権

変の後、武智麻呂は大納言に昇進し、2年後には宇合・麻呂の2人も参議として議政官の仲間入りを果たします。こうして大納言の武智麻呂、内臣の房前を中心に宇合・麻呂の藤原四子政権が成立するのです。(一つの家から4人の議政官を同時に出したのは史上初)

そして四兄弟は、自分の兄妹である光明子を当時は皇族に限定されていた皇后に立てることに成功します。皇后は、当時は天皇の代行が出来るだけでなく、女性天皇になることもあり得る天皇家の家長的役割が可能な地位でした。こうして藤原氏は大きな地位を得たのです。さらに、734年には武智麻呂は父と同じ右大臣に昇進します。

5.藤原四子政権の崩壊

政権が8年目にはいった737年、武智麻呂の長男、豊成が叙爵され、藤原氏は次世代へと進みつつありました。

しかし、そんな時に疫病(天然痘と言われる)が突然流行してしまい、四兄弟は次々と病に倒れてしまい、間もなく世を去ることになります。

四兄弟が世を去ると、代わって朝廷の中心に就いたのは皇族系の橘諸兄でした。一方で、藤原氏から議政官に上ったのはまだ若い豊成ただ一人だけでした。他の兄弟の子供たちは、まだ官人に就ける年齢では無かったのです。こうして藤原氏はしばらくの間、勢力を弱めることとなりました。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。






































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