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Vol.9 藤原氏②~不比等の台頭

こんにちは。TKです。今日は藤原鎌足の息子、不比等の時代について書いていきたいと思います。

1.不比等の幼少期

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今日の主人公、藤原不比等は鎌足の息子として659年に生まれました。彼は父親を亡くした後、まだ子供だったこともあり百済系渡来人の一族である田辺史氏の下に引き取られていたようです。(ちなみに不比等は幼少時には、「史」という名前だったと言われています。)

田辺史氏の下で教育を受けたと思われる不比等は、周囲に鎌足の息子として高く評価されていたようで、成人するとすぐ当時の大臣の娘と結婚し(ちなみにこの大臣は蘇我氏)、武智麻呂・房前・宇合の3人の息子を儲け、31歳の時には判事、そして中納言と着実に出世していきます。

2.天皇の親せきへ

不比等が出世の階段を上っていたころ、朝廷では女帝・持統天皇の跡継ぎを誰にするかが問題になっていました。そこで、持統天皇は収拾のための会議を開きます。
この時に天皇が頼りにしたのが不比等です。そして不比等は葛野王と協力して持統天皇の望んでいた軽皇子の立太子に成功します。

これで持統天皇から信任を受けた不比等は、娘の宮子を軽皇子に入内させることを認められ、藤原氏は天皇の親せき(外戚)になるのです。

3.藤原氏の確立

外戚になった不比等は次に、自身の家族と親せきの中臣氏を分けることに手を付けます。
698年、不比等は持統天皇の跡継ぎである文武天皇から詔を受けて、藤原氏の姓を自分の子供だけに限定させます。これにより、他の藤原氏は中臣氏に戻され、政治の場を去り、神官に戻ることになります。不比等はこうして、政治の場を独占します。(ちなみに、史から不比等に改名したのはこのころのようで)

不比等は701年には、大宝律令と合わせて「蔭位制」という制度を作ります。これは、上級官人の子孫であれば自動的に高い官位が与えられるもので、高官の地位を世襲出来るというものでした。これで藤原氏は代々高位高官の座を独占することになり、やがては天皇家と一体化してゆきます。

また、このころ娘の宮子に首皇子(聖武天皇)が生まれ、藤原氏はやがてこの皇子にも娘を入内させ、天皇家と藤原氏の関係をさらに濃いものにしていくのです。

4.平城京遷都

702年、持統上皇が世を去り、3年後には文武天皇も世を去ったことで、時代は次へと移ります。
そのような中で、天災や疫病が続いたこともあり、不比等は遷都を計画します。こうして、平城京へと都が移るのでした。奈良時代の始まりです。

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平城京に入った不比等は宮廷の隣に自邸(今の法華寺)を造らせ、横には東宮御所(皇太子の家)を建て、714年にはついに自分の孫、首皇子を皇太子にすることに成功します。こうして、彼は天皇家と藤原氏の関係を特別なものとします。

また、716年には息子の宇合を遣唐使として唐に送っています。

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こうして藤原氏の地位を確立した不比等は、720年に世を去ります。そして不比等は、一位太政大臣の位を与えられたので、蔭位制によって不比等の孫たちも高官の地位を引き継げることになりました。

本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。


































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