他の人の分までがんばるぞぃ(日本と中国との違い)

近くて遠い日本と中国


 日本と中国とでは、「漢字」を使うと言う共通点があり、日本では江戸時代以前までは、中国を先進国として憧れる存在だった。教養といえば、『論語』や『史記』や『老子』など、中国の古典を学ぶのが主流といえた。

 その一方で、ヨーロッパなどに比べて距離が近く、近しい存在であると「勘違い」することもある。
 自分たちと同じような考えを持つはずだという勘違いである。
 現在でも、中国人が起こす騒動や主張に対して「あいつらの言っていることがわからない」、「あいつらの考え方はおかしい」と、心の距離感を感じることがある。
 それを表すエピソードは多いが、ここでは『韓非子』からひとつ紹介してみる。

寒いでしょう

 魏の昭侯がうたた寝をしていると、典冠(冠を管理する官吏)が昭侯に布をかけてあげた。
 目を覚ました昭侯が近侍に「誰がかけたのか」と尋ねると「典冠です」と答えたので、昭侯は典冠と典衣(衣服を管理する官吏)の両方を処罰した。

早朝に報告します

 石田三成は、いつも朝早くから見回りをしていた。
 城壁などに異状があった時は、三成がすでに朝早くから太閤(豊臣秀吉)に報告し、見回りの担当は定時に出勤してから、ようやくその報告をするのだった。

どっちが正しいかなんて……
 さて、この2つの話を目にして、あなたはどう思っただろうか。
 世の中の価値観は少しずつ変化しているとは言え、おそらく日本人は石田三成の話を読んで「石田三成は何て真面目なんだろう」、「担当も早く出勤して、ちゃんと仕事しろ」といった感想を得たかもしれない。
 そして逆に、昭侯の話に「良いことをしたのに、処罰されるなんてひどい」、「中国人は思いやりがない。冷酷非情だ」と言う感想を抱くかもしれない。
 経営の立場から見れば、実は石田三成の行動は糾弾されるべきであり、昭侯の態度は、上に立つ者としては正しい。
 なぜか?
 石田三成は役割分担を壊しているからである。
 石田三成の話は、自分の仕事以外の仕事もこなした、真面目人間の話のように見える。しかし、これは、見回りの仕事を奪ったに等しい。そして見回りの人は、定時に出勤して、定時の仕事をしているのに不真面目のように見えてしまう。
 これは石田三成の自己満足でしかないと、客観的には判断せざるを得ない。

 そして昭侯の話であるが、両者が処罰されたのには理由がある。
 まず典冠は、役目を間違えている。彼がすべきは冠の管理であって、衣服の管理ではない。
 そして典衣は、衣服の管理を怠ったと見做されても仕方ない。うたた寝をして身体が冷えるのを心配するのは、典衣の役目でもある。だから、典衣は典冠の行為を、むしろ非難しなければならない。


 責任の所在の問題にもなる。
 もし壊れた城壁から泥棒が入って、城内から物が盗まれたとしよう。
 城壁が壊れていることに気付かなかったら、見回りの責任である。見回りがそれを報告していたのに修繕の指示が出されていなければ、報告を受けても対策を行わなかった者(修繕を指示する監督者、最高責任者の秀吉など)の責任である。修繕の指示が監督者から出されていたのに怠っていれば、修繕係の責任である。
 では、石田三成は何か罪に問われるのか。問われるはずがない。彼の行いは規定外だから、責任の所在もない。
 ではここで、三成が修繕係に「この程度なら大丈夫だから、修繕は後回していい」と言っていたらどうなるか。もちろん、責任を問われるのは修繕係であって三成ではない。三成にはもともと、指示する権限がないからだ。修繕係に指示を出すのは修繕監督者である。とはいえ、修繕係も三成の命令を無視するのは難しいだろう。三成は修繕監督者よりも偉い人だからだ。
 現代企業でも、よくこの手の誤りは起こる。課長と部長からの指示が異なっていて、どちらの言うことを信じていいか分からないという場合がある。課長から「A社の案件を先に」と言われたのに、部長から「B社の案件を先に」と言われたら、どうするだろう。
 ふと、周亜夫の話を思い出した。

周亜夫こそ真の将なり

 周亜夫は前漢の文帝に仕えた人物で、『呉楚七国の乱』を鎮圧した名将だが、文帝が各将軍たちの陣営を慰問した時に、こんな話がある。
 文帝が各陣営を訪問すると、どこでも快く受け入れ、兵士たちも和気あいあいとした様子で出迎えていた。しかし、細柳に陣取っていた周亜夫の陣営に入ろうすると、入口で止められた。許可が無ければ、誰一人通してはならないという命令があるからだという。文帝の側近たちは、陛下に対して失礼であるぞと怒ったが、それでも通そうとはしない。割符を差し出して、ようやく通ることが出来た。
 しかし周亜夫の元へすぐに到着できたわけではない。
 まず、陣中が異様だった。鎧を着け、武器を構え、弓も張った状態になっていた。これは戦時中では当たり前のことだが、皇帝を迎えるにはふさわしくない。まるで敵の使者を出迎えるかのようである。さらに陣中を乗馬したまま通行してはいけないという規則によって、文帝は馬から降りて歩かなくてはいけなかった。それ以外にも、陣中での決まり事を悉く守らされた。
 他の陣営では文帝が来たらすぐに中に通され、馬に乗ったまま移動しても何も言われることがなかったので、側近たちは周亜夫を無礼であると激怒した。
 しかし、文帝は彼らをたしなめた。
 他の陣営では兵士たちが好き勝手に振舞っていたが、周亜夫の兵士たちは文帝が来ても規律通りに振舞い、文帝を観ようとして列を乱すような者もいなかった。
「彼こそ、真の将である」、と。
 周亜夫の部下にとって上司とは周亜夫であって、文帝ではない。そして、周亜夫以外からの命令を聞く必要など、まったく無い。
 皇帝が相手でも臆しない規律正しい部下たちを育てている周亜夫を、文帝は高く評価したという話。

 本物の仕事人とは、自分の役割を明確に把握し、的確に実行し、余計なことはしない者のことを指すのである。

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