ご当地ヒーロー「ダルライザー」が映画になるまで(前編)
本記事は2022年7月27日にアップした下記記事でのインタビュー取材の完全版です。
和知 健明(わち たけあき)プロフィール
1980年福島県白河市生まれ。桐朋学園大学短期大学部(現・桐朋学園芸術短期大学)芸術科演劇専攻卒。東京での演劇活動を経て2015年よりダルライザープランニング代表。2017年企画から製作・脚本・主演を担当した『ライズ ダルライザーTHE MOVIE』が公開。2022年4月より白河商工会議所青年部令和4年度会長。
――まず、ダルライザー誕生のきっかけについて教えてください。
2005年にいわゆる平成の大合併があって、4つの自治体が合併して新体制で福島県白河市ができました。その時から僕は白河商工会議所青年部に所属していて、合併後の新しいキャラクターを創ろうという会議を企画しました。
当時マイケル・ベイ監督の映画版『トランスフォーマー』(2007年)を観ていて、それがカッコよかったので白河市の形が変形してロボットになるのがいいかな、と思ったんですけど(笑)、「ヒーローっていうのもあるんじゃない?」と青年部のほかのメンバーが言っていて、それで家に帰ってから思い出したのが秋田の「超神ネイガー」さん(2005年より活動中)だったんです。それでご当地ヒーロー(ローカルヒーロー)というのもありだなというのと、ダルマが人の顔をしているのでそれをキャラクターにしたら面白いかなと思いました。で、人型にしたデザインを最初に描いてみたら、青年部の先輩たちが「これ、面白いからやったらいいんじゃないか」と言ってくれて。
でも最初はリアルなダルマに手足が生えたみたいなデザインで、そのままでは子どもたちに人気が出ないと思って(笑)、ちょっと研究することにしました。ウルトラマン、仮面ライダー、ガンダム、ディズニーとか、ヒーローに限らず息長く続いているキャラクターを調べたんです。その特徴というか共通項を探していったら、色を3~4色しか使っていないということと、主人公の名前の文字数も「スパイダーマン」や「アイアンマン」とか、6文字ぐらいがベストだということが分かりました。だからダルライザーも赤をメインに金・黒・白のスーツで、名前も6文字なんです。
ダルライザーの企画を始めた当時、自分の子どもが生まれたばかりだったので、その子が大きくなった時に住んでいる白河市がどうなってるのかな、ということを考えていました。その時に観たのがクリストファー・ノーラン監督の『バットマン ビギンズ』(2005年)や『ダークナイト』(2008年)だったんですね。基本的にバットマンは、腐敗した町を正すためにコウモリのスーツを着てインパクトを与えるというか、犯罪者を変えて町を浄化しようとしたじゃないですか。それと同じで、不景気になっている町をヒーローで活気づけることができれば、将来町が明るくなっていいんじゃないかなと。やっぱり子どもたちのためにもそれがいいのかなと思って、ダルライザーのコンセプトを創っていきました。
ダルライザーを創る時に「グッズを作ろう」という話もあったんですが、そのとき僕は「グッズは作らない」と言ったんですよ。ダルライザーが出た時からグッズが用意されていたら商売のためにヒーローを創ったと思われるから、逆にお客さんから「グッズはないんですか」と聞かれるまでは作らないと決めてました。だから合言葉としてダルマだけに「転んでも起き上がれ」みたいなことを伝えるヒーローショーや握手会を2008年から始めたんですね。僕らは、今じゃなくて「20~30年後の白河市を活気づけたい」ということでそういう手法を取ったわけです。でも、1年ちょっと経った頃に「グッズを子どもに買ってやりたい」という人が出てきました。その時は「今はないんです。すみません」と言って、その翌年のイベントからグッズを準備しました。
そもそもダルライザーは、登場した時には名前が付いていなくて、市民の皆さんに募集して決めたほうが愛着をもってもらえるかなと思ったんです。なので、デビューしたイベントの時に「名前を付けてください」というチラシを配ってました。だから当初皆さんは単に「ヒーローさん」と呼ぶわけです。「ヒーローさん、ヒーローさん」と言われて、何か自分がヒーローになったつもりでいたんです。「ヒーローって気分いいな」って。
そのイベントで、ある子どもの3兄弟に会ったんです。5歳ぐらいのお兄ちゃんがベビーカーを押していて、3歳ぐらいの弟くんがベビーカーの横につかまって、さらにベビーカーに乗っている赤ちゃんも合わせて3人が僕に近づいて来ました。そしてその5歳ぐらいのお兄ちゃんから「ヒーローさん、握手してもらえませんか」と言われて――当時は喋らない設定だったので――うなずきました。そしたら「いいってよ」と言って、最初に自分じゃなくて弟くんの手を、「はい」って言って出してきたんです。次に「この子もいいですか」と言ってベビーカーに乗っている生まれて数か月ぐらいの赤ちゃんとも握手させて。最後に「僕とお願いします」と言われて、握手して「よかったね」と言って帰っていこうとしてたんですが、「あ、そうだ」とくるっと振り返って「ありがとうございました」ってお辞儀をしたんです。
5歳ぐらいの子どもなのに「すごく優しいお兄ちゃんだな」と思いました。それで、自分がめざすヒーロー像は、むしろこっちなんじゃないかと急に考えて。最初ダルライザー――当時まだその名前はありませんでしたが――はそれこそ仮面ライダーみたいに変身する設定だったし、敵は怪人だったんですよ。人々が捨てたゴミが寄り集まって怪人になって現れるみたいな、人間がやった悪いことが形になったものをダルライザーが倒す、みたいな物を考えていたんです。
でも僕にはそのお兄ちゃんがヒーローに見えた。だからダルライザーは変身して強くなるんじゃなくて、ただの人間にしようと。そして「転んでも起き上がる」に「負けてもいいけど、勝つまであきらめない」というコンセプトも加えて、悪役もただの人間というふうに変わっていったんですね。だから、ダルライザーが生まれるうえでその子との出会いはすごくインパクトがありました。
――そもそも、和知さんが白河市に戻った時のシチュエーションが映画と似ているという感じだったのですが。
映画は少し脚色していて。映画だと妻の妊娠という設定だったと思いますが、東京で演劇を「このままずっと続けていいのかな……」と思っていた矢先、父親に「会社の後を継ぐために白河市に戻って来い」と言われたという感じです。
たしかにダルライザーの物語は自分の体験も元にしているのですが、敵が天才集団「ダイス」ということを思いついて「万が一自分がふつうに生活している時にダイスが現れたら、どうやって対応するかな」という想像を膨らませながらストーリーにしていったんですよ。災害とかと一緒で、突如そういう困難が現れたらどう対処するのかなというと、皆さんの共感を得やすいというか、身近に感じてもらえるかなと思ったんですね。
それは完全にバットマンの影響ですね。でも自分がバットマンみたいに、最初からお金持ちで私財を投じてスーツとかを開発するというのでは信憑性がなくなってしまうので、身近に町にあるものを使って物語を創っていこうと考えました。
――ダイスは映画のなかでは、実際に白河市市民の方がやっていますね。あれはヒーローショーとは違う方がやられているんですか。
今は違うメンバーですけど、映画に出てくるのは初代ダイスの人たちで、ショーでも実際にマスクを被っていました。そもそも白河商工会議所青年部のメンバーだったんです。最初はただショーをやってみただけだったんですけど、それが終わった後で、入ってくれたメンバーの人生をモデルにして物語を創ったんです。そうするとリアルになるじゃないですか。だから、当時からダルライザーを気に入って見てくれているファンにとっては、映画になって出て来るのが、まさに中の人=実在の白河市市民なんですね。だから結果的に、実際に白河市で起きていることのように感じられるという仕組みになったというか。
――それがすごくリアリティにつながっているということですね。同時期というか2011年に東日本大震災が起きましたが、何か影響はありましたか。
震災があって2日後ぐらいには「原発避難地域の方々が白河市の中学校の体育館などに続々と避難してきている」という情報を聞きました。だから見知らぬ土地の体育館で子どもたちも不安な思いをしているんじゃないだろうかと思って「ダルライザーで応援しに行きましょう」と言いました。でも「今はそれどころじゃない」という返事が返ってきて……慰問はできませんでした。なのでダルライザーとしてじゃなくて、当時勤めていた会社のボランティアとして、素顔でおにぎりを握ったり配ったりという活動をしていました。
震災後1週間ぐらい経った時に、市役所から避難所に慰問に行ってほしいという依頼が来ました。皆、着替え終わって体育館に入る前に、身振り手振りでは応援することはできないから、喋っていいということにしました。「どこから来たんですか」とか「何か手助けできることはないですか」とか、何でもいいから喋りましょうと。そこからダルライザーも喋るようにしたんですね。
――ヒーローアクションに取り入れている武術のKEYSI(ケイシ)との出会いはいつ頃ですか。
2015年、僕がダルライザープランニングを立ち上げて独立した頃です。経営の勉強もしないと、と思ってセミナーなんかを受けてたんですね。で、講師の先生が「思い立ったら即行動しなさい」って話をしていて、自分は「ダルライザーとしてヒーローアクションをやるのに普通じゃつまらないから、憧れのバットマンのKEYSI(※『バットマン ビギンズ』などでアクションに採用されている)をやってみたい!」と思って。そうしたらスペインのKEYSI本部のホームページに「contact」というところがあって、ポチッと押したらメールフォームが立ち上がったので、そのまま勢いで「I want to learn KEYSI」って、その一文だけ送ったんです。
そうしたら、すごい長文が返って来たんですが、何て書いてあるかぜんぜん分からなくて(笑)。当時の翻訳ソフトみたいのは今ほど精度が高くなかったので、知り合いの英語塾の先生に翻訳してもらいました。その後その先生にも助けてもらいながらSkypeで話したんですが、そうしたら創始者のフスト・ディエゲス先生が、「フクシマを知ってるよ。震災や原発事故のことでは私たちも心を痛めている」と言ってくれて。
「僕はその福島のためになるような映画を作りたくて、それでKEYSIを使いたい」と言ったらフスト先生が「それは素晴らしいことだ。で、君はインストラクターに興味はあるかい?」と。「えっ、急に?」と思ったんですけど、そこは勢いで「あります」と返事したら「じゃあ、なりなさい」と。「君がスペインに来て学ぶか、僕が日本に行って教えるか、どっちがいい?」と聞かれて、先生は日本に来たことがないそうで、また、もともと先生は空手もやったことがあって「日本の武道精神は本当に素晴らしい文化だ」と言っていたので「じゃあ、ダルライザーをきっかけに、初めて日本に来てください」と伝えました。
それで2016年に来日してもらって、空手道場を借りてKEYSIを教わったんですね。僕の弟(「KEYSI東京」インストラクターの和知龍範氏ら)やフスト先生が連れてきたお弟子さんの計7人で一緒にトレーニングをしたんです。 1週間後にテストをやって、「OK、合格だ。明日からでも道場を開きなさい」と。「でも、教わって1週間ですよ」と言ったら、「今がいちばん覚えてるでしょう。人に教えなかったら、君、教わったことを忘れちゃうよ」って。
だからすぐに準備して、道場をオープンして、オープンセミナーをやって、体験に来た人たちの中の何人かがに通いたいと言ってくれて。その人たちが今の「KEYSI福島」のメンバーです。で、彼らに教えながら「自分と違うな」と思うと「もうちょっと重心をここに置いてやってみて」とか、言葉で考えるんですよね。どうやって伝えれば生徒さんがうまく体を動かせるようになるかを考えながら言っていたら、フスト先生の言った通り「教えることが勉強」になる。
単に教わっている時は、フスト先生が技をかけてくれるから、何となく「こうすればいいんだ」というのは分かってても、自分自身の体の使い方はよく分かってなかったんですね。先生が、ずっと「Gravity center(『重心が中央に来るように』)」と言っていて、単に重心を真ん中に持ってきたんですが、時々違うと言われることがあって。どうも先生はもっと深い意味でその言葉を使っていて最初は理解できなかったんです。ところが、生徒さんに教えているうちに、「『重心が中央に来るように』って、そういうことか!」とわかってきて。その後も年に1回、スペインに修行に行っているのですが、自分が生徒さんに教えていて発見したことを先生に確認すると、「Exactly(その通り)」って言われて。
当時、KEYSIを初めて日本に取り入れたということで『月刊秘伝』という雑誌が取材に来てくれたんですよ(※2017年6月号特集「進め!プログレッシブ武術」で紹介)。その時に、記者さんにその話をしたら、さすがいろいろな格闘技を取材しているからよくわかっていて「それは理に適ってますね。日本の武術は、とにかく長くやったことが美徳とされているから、ある程度年齢が高くないと上段まで行けない。若いインストラクターを育てるためには、KEYSIのシステムは最高です」と。思わず「なるほどなぁ」と感心して聞きました。
KEYSIには運命的なものも感じています。僕、1980年生まれなんですけど、KEYSIの創設も同じ年なんです。あと、フスト先生に「なんでKEYSIで身を守ることが必要なんですか」と聞いたら「われわれの未来を守るためだ」と。KEYSI の標語は“Nunca te rindas”(スペイン語で「決してあきらめない」)です。まさにダルライザーも「20~30年後の白河市を活気づけたい」「負けてもいいけど、勝つまであきらめない」って言っていたので、すごく共通するところが多々あって。勝手に結びつけてるところもありますが(笑)。
(後編へ続く)
ダルライザー公式サイト