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映画「竜とそばかすの姫」感想

(日記から抜粋。なので映画と関係ない前談が少しあります、ごめんなさい。カットしようかと思ったのですが、映画は観るタイミングが大事な要素の1つなので、この日がどんな日だったかについては残しています。感想だけ読みたい方は読み飛ばしてくださいませ)

忘れられない1日となった。
この日は少し大げさな言い方をすれば何か恩寵をすら感じた。
秋晴れの心地よい風を感じながらゴミを出し、娘を保育園へ送り出し、朝9時過ぎに家を出て、カフェにて帯同出張によりカナダに行ってしまうママ友と待ち合わせ。天気がよかったので、マフィンとラテをテイクアウトして大きな池のある公園のベンチで、2時間喋り倒した。
子供の話はほぼなく、仕事や未来や英語や不動産の話など。
2人目は諦めるかも、というちょっと悲しい話を私がしたら、ママ友のあやさんは「いろいろなケースがありますよね。世界のあちこちを訪れて、別居してそれぞれが合う土地で過ごす夫婦や、母子だけ留学してる人たちを見てきました。私もあなたも子供が2人でもやっていけるだろうけど、1人だとしても、それはそれでいろいろな道を作れるタイプだと思う。大事なのは納得すること」。
私も聞きながら、その「納得」という言葉を思った。大事なのは、自分がそれで良いと腑に落ちるかどうか。
欲深い自分のことを思い、またしかしその欲深さすら、自分では決められないことなのだよなと思う。「その欲深さを客観的に見て、どう料理するか」が当人の大人さ加減というか知性のようなものなのだという気がする。子供を作るとは全く、親のエゴで、私にとって子供がいることの良さとは、自分の自己愛を思い切りよく手放すことができること、というのも大きいと思う。
ハグして駅で別れ、来夏カナダで会うことを約束する。実現できるといいな。

映画は圧倒的だった。
六本木ヒルズ。心を揺さぶられ、観賞後、呆然として外でしばらく風に吹かれた。映画館での鑑賞自体も10か月ぶりで、映像と音楽に圧倒された。3年前なら同じ映画でもここまで揺さぶられなかったかもしれない。映画館に出かけること、大きな画面で音と絵を見ること、ストーリーに力強さがあること。そのどれもが新鮮で、「ニューシネマパラダイス」の少年のように見入ってしまった。
毎日渋谷に通っていて、六本木の映画館に行くことなんて訳ないのに、それでも実際の距離より、はるかに遠かった「六本木の映画館」。

まず主人公の声、人の声の温かさと力。細田監督はこの映画をいつから温めていたのだろう、まるでリアルでの触れ合いが禁じられることを予期していたかのような「声で触れる」ありよう。作中では主人公が「密」の中で大勢の観客に熱狂されるが、スクリーン越しに映画館の観客にも声で触れてくる。細田監督がこれでもかとたたみかけてくる、その熱量に圧倒された。
主人公の生い立ちにはほとほと泣かされ、開始15分でマスクが使い物にならなくなったが、監督のメッセージを手繰ろうとする。ディズニー映画「美女と野獣」はもちろん、(多分)「SEARCH」などいくつもの映画へのオマージュの部分があり、観ている途中で、これはストーリー自体をものすごく重視した作りではないかもしれないと思い始めた。とはいえ、この日の私には十分だった。

是枝監督の映画で私が最も好きなのは「空気人形」だが、それは「考え抜かれたプロット」のはずが、監督自身も覚えず声が上擦ってしまったような、らしからぬ「いびつさ」のようなものが感じられたからだ。
まあ、細田監督はいつもちょっと上擦っているような感じもあるが、この映画にはとりわけ、そういう感じがあった。ストーリーよりも、「今ここにきて」、「固く冷たくなった心よ、ここにきて。あなたは見えないところで愛されている」というメッセージを(私は勝手に)受け取った。
それから社会的な問題提起や、通底するテーマ。一番大きかったテーマは「匿名性」について。バーチャル世界で人はどんな振る舞いをするのか、どんな社会になるのか、あるべき姿は何か。これは細田監督自身の過去作にもあるテーマ。
それからまた、「人の本心」について。あの人はなぜこうなったのか、“本当は“何を思っていたのか、どうしたら確かめることができるのか。
心に残ったのはジャスティン(多分ケイたちのお父さん)の振る舞い。彼も傷ついているのだと思った。
細田監督はどうしてこうも熱情を火の玉を丸めるようにしてぶっつけてくるのか。泣くしかないじゃないか。


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