ヒメカの選択
眠りに着くと、初めてこの世界に来た日の夜と同じことが起こった。
〈姫香、姫香……〉
相変わらず、頭に直接響いてくる声だった。
〈魔法使いさん?〉
〈はい、そうですよ〉
〈……あ、そうだ。ドレスの件はありがとうございました。おかげで一人で着替えをすることができて助かってます〉
〈いいえ、お役に立てて何よりです〉
と穏やかに言った魔法使いさん。
そしてなぜか、互いに黙り込んでしまった。もしかして、もう魔法使いさんとつながっていないのかな? そう思い、軽く呼んでみる。
〈魔法使いさん?〉
〈はい?〉
あ、通じてた。
〈あの……今日はどんな用事ですか?〉
〈いえいえ、僕の方には特に用件はありませんよ。……強いて言うなら、姫香が困っていることがないかと聞きに来ただけです〉
そう言われて、考えた。困ったことなんて……あった。それも、かなり大きいやつ。
〈魔法使いさん、王子様と人魚姫が結婚できなかったら、私は元の世界には帰れないんですよね?〉
〈はい、その通りです〉
きっぱりと言われて……私は嬉しくなってしまった。
いけないことだと分かってる。けれど、私はこの世界に残れることを喜ばずにはいられなかった。
〈じゃあ……人魚姫が結婚できなくても泡にならない方法ってありますか?〉
もしも、それがあるのなら実行して……この世界に残りたい。
元の世界に未練はある。生を受け、十六年間生きてきた世界だから当たり前のことだ。
けれどそれに匹敵するくらい、この世界を、シグルドを、好きになってしまった。彼と離れて、彼を忘れて、元の生活を送れるだろうか。
答えは否。無理だ。
だから私は決断した、たとえシグルドと結ばれることがなくとも、この世界に残ろうと。
けれどそれには、大きな代償を支払わなければならない。すなわち、マリンちゃんの死。
私のわがままのために、誰かを犠牲になんてしたくない。
だから、自己満足であるのは分かってるけど、マリンちゃんを救う方法があるのなら教えてもらいたかった。
〈なぜ、そんなことを訊くのですか? ……まさか、姫香は王子と結婚するつもりなのですか?〉
〈うん、できることなら〉
〈そう……ですか〉
それきり、魔法使いさんの声は聞こえなくなった。まさか今度こそ通信が切れてしまったのだろうか。そう思い、口を開きかけると――
〈分かりました。姫香は……王子と結婚することを選んだのですね〉
と、魔法使いさんの声が聞こえた。
〈では、これを姫香に渡します〉
……と言われても、寝ている状態で声だけを聞いているのだから、『これ』がなにか全く分からない。
そう伝えると、魔法使いさんは、そういえばそうですね、と納得した。
〈今は見えませんけど、起きれば分かりますから安心してください。……今、姫香に渡したのは魔法の石です。ひとつだけ願いがかなえられます。それを使えば、人魚姫は泡にならずに済みますよ〉
〈本当に?〉
〈えぇ〉
〈よかった。……魔法使いさん、ありがとう〉
そう言ったが、魔法使いさんはなにも返事をくれなかった。そして、これを最後に魔法使いさんとの交信は本当に途絶えたのだった。
夢をみてどれくらいの時間が経っただろうか。自然と目が覚めた。
「ん……」
右手に違和感を覚え、見ると、石が握られていた。握り込んでしまえば見えなくなってしまうくらいの大きさの、まっ黒だけれど透き通っている石。
光にかざしながらその石を眺めると、あまりの深みに、吸い込まれてしまうような錯覚に陥った。
おそらく、これが魔法使いさんの言っていたものだろう。
これがあればマリンちゃんを助けることができる。そう安心したとき、異変に気がついた。
……静かすぎる。
私が起きる頃には、たいていシグルドが部屋にいるのだ。それなのに今日はまだ来ていなかった。
起きた時に部屋に人がいる方が変であるにも拘わらず、いつの間にかいない方が変だと感じるようになってしまっている。慣れって怖い。
何かあったのかな、と思いつつも身支度を整える。今日は濃いピンク色のドレス。胸元の大きなリボンが可愛らしい。
着替えが終わるのとほとんど同時に、ノックの音が聞こえてきた。たぶんシグルドだ。
「はーい。どうぞー」
扉から顔をのぞかせたのは、予想通りシグルドだった。
そして、部屋に入ってきたシグルドの後ろ姿を確認した瞬間――私は絶句した。
「ど……」
上手く声が出ず、かすれていた。
「どうしたの、その頭」
「おかしいですか?」
「いや……おかしくはないけど」
彼の、艶のある黒髪がバッサリと切られていたのだ。昨日までは腰まであったのに、今は肩にすらつかない。
「……シグルド、失恋でもしたの?」
あまりの変化についていけず、おかしな質問をしてしまう。
元の世界の、真実かどうかも怪しい話だ。その上シグルドは男性。ありえないし、あってほしくない。
しかし、そんな私の希望は打ち砕かれた。
「えぇ、昨夜」
強烈な一撃を脳内に受けた気がした。
そっか……シグルドには好きな人がいたのか……。
自分の知らなかったシグルドの一面が存在していたことが、たまらなく悲しい。そのうえ、それが恋愛のことだとなるとなおさらだ。
好きと伝えてなくて、良かった。
伝えることができなかったおかげで、直接フラれることにはならなかった。
フラれなかったことにホッとしている自分がまた情けない。私は心の中で自嘲した。
「完全に振られてしまいました。……彼女、結婚するそうなので」
かなり沈み込んだ様子のシグルドを前にして、胸が締め付けられた。
シグルドが私ではない誰かに恋心を抱いていたと聞いた私の痛みなのか、それともシグルドの痛みがうつったのか……はっきりとは分からない。
「ずっと、好きだったんですよ。小さいころからいつも一緒で、いるのが当たり前のような感じだったんです」
絞り出すようにそう言ったシグルド。かわいそうに、今にも泣き出しそうだ。
私なら、貴方にそんな思いさせないのに。
「……あきらめられないの?」
あきらめてしまえばいいのに。あさましくもそう思った。
「あきらめられるわけないじゃないですか!」
穏やかなシグルドらか発せられたとは思えない、鋭くとがった言葉。
私の中に込み上げてきたのは、いまだかつて感じたことのないドス黒い感情だった。
――ずるい。悔しい。
シグルドをこれほど悲しませておいて、いまだにこんなに思ってもらえるなんて……。
いったいどこの馬鹿がシグルドにこんな思いをさせているのか。
「だから、僕は……」
シグルドの言葉が終わらないうちに、ドアがはげしく打ち鳴らされた。
「ヒメカ様、そちらにシグルド殿はいらっしゃいますか?」
声の調子が切羽詰まっているように感じた。シグルドもそれを感じ取ったようで、一変キリッとした表情に変化する。
「なんですか?」
シグルドが顔を出すと、ドアの前にいた兵士が、ぼそぼそと彼に耳打ちをした。
「――分かりました、すぐに向かいましょう。あぁ、ヒメカ様は部屋にいて下さいね。良いですか、絶対に部屋から出ないでくださいね」
かなり念を押した後、廊下を走って、どこかへ向かっていった。
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