ドキドキしてる、でも言えない

 薬品の匂いが充満した部屋には誰もいなかった。

「お医者さんは……?」
「あぁ、そう言えばヒメカ様は知らないのですね」

 彼は棚から薬品や包帯などを取り出している。待っていればお医者さんが来てくれるだろうに……。

「ここは第三医務室ですから、医者はいないんです。第一と第二には医者が常駐していますが、ここには治療道具がおいてあるだけです。治療は自分の手で行います」

 だからシグルドは道具を出しているのか。
 忙しく動き回る彼を目で追いつつ、なにか居心地の悪さを感じた。
 なんだろう、この感じ。静かな部屋、二人きり、大人しくベッドに腰掛ける私、治療道具を用意するシグルド。

「あ!」

 どうして私がゆったりと座っているんだ。私の治療じゃないか。

「ごめんシグルド、今手伝うから」
「ダメです」

 立ち上がりかけた私を、シグルドが手で制す。

「怪我をしているんですから大人しくしていてください。それに、この医務室に連れてきたのは僕です。本当なら医者のところに連れていくべきところを、わざわざここに連れてきたんです。これくらい僕に任せて下さい」
「……分かった」

 シグルドは小さな瓶を手に、ベッドの近くにあった椅子に座った。

「まずは首の怪我を見ますから……失礼します」

 首元がゆるめられ、スッと空気が入ってくる。
 怪我を確認しようと顔を寄せてくるシグルド。その距離があまりにも近くて、体の芯が熱くなる。
 長いまつげに縁取られた深い海の色をした瞳。伏し目がちなため視線を『見る』ことは出来ないが、どうしても『感じて』しまう。

「これは……剣で切られた傷、ですね」

 シグルドの親指が、傷口を触れているかいないか分からないくらいの柔らかさでなぞる。

「いったいどうしたんですか?」
「……」

 正直に話すべきか迷った。話せば、きっとまたシグルドを心配させることになるだろう。
 そう思っていたにも拘わらず、私の口は勝手に話しだしていた。

「実は……忍び込んだときに、兵士に見つかっちゃって……」

 シグルドは勢いよく顔をあげた。
 驚きを表していた顔がみるみるうちに変化していき、最終的に怒りの表情が出来上がっていった。

「なんて危険なことをっ! もっと気をつけなさいっ!」
「ご、ごめんなさい!」

 噛みついてでもきそうな勢いのシグルドに恐怖を覚え、間髪入れずに謝ってしまった。

「あぁ、もう!」

 強い力で引き寄せられ、そのまま抱きしめられた。

「本当に……この程度の怪我で済んでよかったです」

 キュン、と心臓が音をたてた気がした。
 私を包み込む、シグルドの腕が、体温が、匂いが、すべてが心地よかった。

 ――このまま時が止まればいいのに。

 私はようやく自覚した。私はシグルドが好きだ。好きな人だから、抱きしめられると幸せを感じるんだ。

「あのね、シグルド……、私、シグルドのことが、す……」

 き、と続きそうになって、言葉がのどに詰まる。
 言ってどうするつもりだったのだろう。いつか終わりのくる関係なのに、気持ちを告げるなんて、シグルドにとっても迷惑なことだろう。

「す? す……なんですか?」
「す……すっごくありがとう」
「……なんか文法がおかしくないですか?」
「そ、そうかな? シグルドに感謝の気持ちを伝えた過ぎて、焦っちゃったみたい」
「そうなんですか」

 頭をシグルドの大きな手が撫でた。なんとも言えない満足感が体を駆け巡る。

「でも、別に感謝されるようなことなどしていませんよ。ヒメカ様のお世話を任される者として当然のことをしたまでです」

 ――お世話を任される者として。

 その言葉がとても無機質に聞こえて、近くにいるはずなのにどことなく遠くに感じる。

「ささ、治療がまだ終わっていません。ヒメカ様、もう一度そこへ座りなおして下さい」

 シグルドは、先程まで私が腰掛けていたベッドを指差しそう言った。
 離れていく熱。名残惜しい……。

「ヒメカ様? どうしたんですか?」

 私は無意識にシグルドの手を握っていた。

「あ……違うの、ごめんね。なんでもないから」

 慌てて手を離し、ベッドに座りなおす。
 シグルドの手際は非常によかった。その辺の下手な医者よりも格段に。
 首の切り傷は、消毒液で軽く血を拭った後、ツンと鼻につく臭いの軟膏を塗られた。
 足のほうは……かなり重傷だったらしい。骨こそ折れていないものの、足は見てられないほど腫れあがり、青くうっ血していた。
 しばらく氷で冷やした後、シグルドは首に塗った薬とは違うものをやさしく塗った。スーッとした感覚が足を包む。
 その上から大きな葉で覆い、包帯を巻いていく。これは葉っぱが落ちないようにするのと、治る前に足をくじかないようにするためらしい。

「これで治療は終わりです。痛みはありますか?」
「大丈夫。ありがとね、シグルド」
「そうですか。それならいいんですけど……くれぐれも、無理はしないでくださいね」

 そう言って、彼は私の頭を一撫で。どうやらこれは彼の癖らしい。
 いつくしむような瞳で見下ろされて、とたんに落ち着かない気分になった。
 捕われてしまえば二度と逃げられない。捕われたいけど、捕われてはいけない。
 私は慌てて話題を提供する。

「そ、そうだ、さっきの話……医務室に着いたら話すって言ってたやつ。あれ、聞かせてくれる?」
「そうでしたね。貴女のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていました」

 一言一言が心臓に悪い。

「わざわざ第三を選んだのだって、貴女とこうして話すために他ならなかったのです。なのに忘れてしまっては意味がありませんよね」

 シグルドは苦笑した。

「さっきのあれは、いったいどういう意味があったの?」
「ヒメカ様が隣の国に殴り込みに行ったということが知られれば、城中が大混乱になります。だからそれを隠すために、ヒメカ様には城の中で迷子になっていたことにしてもらいたいのです」

 引っかかったのは『殴り込み』という単語だ。
 私は断じて『殴り込み』はしていない、ただ城に侵入しただけだ。誰にも危害は加えていない、安らぎ草を盗もうとしただけだ。
 ……ん? これも『殴り込み』といえばそうかもしれない。

「……分かった。騒ぎが大きくならないなら、そっちのほうがいいもんね」

 私が了承すると、シグルドは軽くうなずいた。

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