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月の光に照らされて

静寂に包まれた山寺の境内に、夏の日差しが降り注ぐ。
住職の佐々木円照は、本堂の縁側に腰を下ろし、遠くを見つめていた。
48歳になる円照は、ここ数年、激しい頭痛と不眠に悩まされていた。
医師からは神経衰弱と診断された。
しかし薬を飲んでも症状は一向に良くならない。

「住職、お茶をお持ちしました」
若い僧侶の声に、円照は我に返る。
振り返ると、20代半ばの新米僧侶、西山隆晃が立っていた。
「ありがとう、隆晃君」
円照は差し出された茶碗を受け取り、一口啜った。
「住職、お加減はいかがですか?」
心配そうに隆晃が尋ねる。
「相変わらずだよ。頭が割れそうだ」
円照は苦笑いを浮かべた。
隆晃は心配そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
彼は6ヶ月前にこの寺に来たばかりで、円照のことをまだよく知らない。

その夜、円照は再び悪夢にうなされた。
夢の中で、彼は暗い森の中を歩いていた。
どこからともなく悲鳴が聞こえてくる。
走って逃げようとするが、足が地面に張り付いて動かない。
目前には赤い着物を着た女性が現れる。
彼女の顔は影に覆われていたが、その姿はどこか見覚えがあった。
「なぜ私を忘れたの?」
女性の声が円照の耳に響く。

円照は冷や汗をかきながら目を覚ました。
時計を見る。まだ午前3時だ。
寝不足を押した翌朝。
円照はいつも通り頭痛に悩みながら、本堂の掃除をしていた。
隆晃が駆け寄ってきて、叫んだ。
「住職、大変です!裏山で遺体が見つかりました!」
円照は驚いて箒を落とした。
「何だって?」

まもなく警察が到着し、現場検証が始まった。
遺体は30代後半の女性で、死後すでに20年以上経っていると推定された。
円照は現場に立ち会ったが、その光景を見て激しい頭痛に襲われた。
捜査を担当する刑事の藤井は、円照に質問を始めた。
「20年前のことで何か思い出すことはありませんか?」
円照は首を横に振る。
「何かあったような...だめだ、今思い出せることはありません。」

その夜、円照は再び悪夢を見た。
今度は、赤い着物の女性の顔がはっきりと見えた。
彼女は円照に向かって叫ぶ。
「私を思い出して!あなたが私を...」
円照は冷や汗をいて目を覚ました。
頭痛が激しくなり、手の震えが止まらない。

数日後、藤井刑事が再び寺を訪れた。
「佐々木さん、DNA鑑定の結果が出ました。
被害者は20年前に失踪した村上美香さんという方です」
円照は突然、激しい頭痛に襲われた。
「村上...美香...」
その名前を口にした瞬間、記憶の扉が開いた。
20年前のことである。
円照はまだ若く、寺の跡取り息子だった。
彼は村上美香と恋に落ちた。
僧侶になるべき身で、その関係は許されるものではない。
しかし、美香は円照の子を身ごもっていた。

ある月夜のことである。
二人は寺の裏山で逢瀬をしていた。
美香は円照に結婚を迫った。
円照は激しく動揺した。
とっさの反射で彼は美香を突き飛ばし、彼女は崖から転落した。
恐怖に駆られた円照は、美香の遺体を埋めた。
すべてを忘れようとした。

その晩以降、円照は激しい頭痛と不眠に悩まされるようになった。
頭痛と不眠は、彼の罪の意識が引き起こした症状だった。
「私が...私が美香を...」
円照は震える声で告白した。
「佐々木さん、あなたを逮捕します」

隆晃は信じられない様子で立ち尽くしていた。
その時、寺の鐘が鳴り響いた。
円照は鐘の音に導かれるように立ち上がり、ふらふらと歩き始める。
「住職!」
隆晃が叫ぶ。
円照は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。
「隆晃君、私はようやく自分の罪と向き合うことができた。
これからは、あなたに寺を任せます。」
そう言うと、円照は本堂に向かって歩き出した。
藤井刑事と隆晃が追いかけようとした瞬間、円照の姿が消えた。
二人は驚いて辺りを見回す。
本堂の仏壇の前に、一枚の写真が置かれていた。
それは若かりし頃の円照と美香が寄り添う姿だった。
写真の裏には、こう書かれていた。
「愛する美香へ。許してほしい。
そして、私たちの子どもを守ってほしい」
隆晃は震える手で写真を持ち、藤井刑事に渡した。
二人は言葉を失った。

数日後、DNA鑑定の結果が出た。
隆晃は、円照と美香の息子だった。
月光に照らされた寺の境内に、鐘の音が響く。
隆晃は本堂の縁側に腰を下ろし、遠くを見つめていた。
彼の隣には、若い女性の姿があった。
「父さん、母さん、私はここにいます」
隆晃はつぶやいた。
風が吹き、桜の花びらが舞い散る。
円照と美香の姿が一瞬、浮かび上がったように見えた。
隆晃は静かに目を閉じ、深呼吸をした。

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