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「中抜き」は本当にいけないことなのか?

さて、最近、とくにコロナ禍以降、
人々の社会課題に対する意識は高まっている様に思います。

それは本当にいいことです。
なぜなら、社会に対するひとりひとりの参加意識が高まることでしか、
社会は良くなっていかないからですね。

そんな中で「中抜き」という言葉が聞こえるようになってきました。
イメージ的には「何もしない中間業者が間に入って搾取している」
ということでしょうか。

人々の中にこのような意識が生まれてしまう雰囲気はよくわかります。
でも、実際それはどういうことなのか?ということを
しっかり理解した上で、
感情論ではない自分の意見を持つべきとも思います。

なぜなら、感情論は往々にして本質的な目的と正反対の方向に
事態を向かわせることが多いからです。

「中抜き」ということはつまり、
実質的に役に立っていない人が、お金の流れの中に入り込んで
搾取しているということを言いたいのでしょう。

別の言い方をすると「無駄な人間のコストが乗っている」
ということだと思います。
間に入る人が少ないほど「コスト」を減らすことができる。

シンプルですよね。

その方が、物を買う人は安く買えるし、売る人は利益を大きくできる。
そういうわけです。

でも、本当にそうでしょうか。

経済の指標はGDPで計られますね。
GDPがいいかどうか、という本質的な議論もありますが、
ここでは仮に物差しとしてGDPをおいてみましょう。

GDPというのは、どれくらいお金が動いたか?ということで
経済規模を見る指標です。
ですから、消費税を上げたりするだけで、実は上がってしまいます。

まぁ、その功罪はあれど、とにかくお金が動くチャンスが大きいほど、
GDPは大きくなるというわけですね。

お金に名前がつけられるとして、
例えば今、Mという1万円札があるとします。
そのMというお金が、一定の期間の間に、
どれくらいの人の手を介して、世の中を巡って行ったか。

そのお金がAさんからBさんに渡れば、
1万円のお金が動いたことになります。
そのあとBさんからCさんに渡れば、1万円のお金が2回動いたので、
2万円分のお金の動きがあった、ということになりますね。

こんなふうに社会に参加し、巡るお金の量が多いほど、
GDPは上がっていくということです。

では、こんな思考実験はどうでしょうか?

例えば、10人の人間だけがいる「社会」があったとします。
Aから順にBCDといって、Jまでの10人です。

いま、この10人が横並びに並んでいるとして、
Aが作った製品をJが買おうとしているとします。
Aか製品をBに渡し、BがCに渡し、として、最後Jの手元に渡るとします。

A→B→C→D→E→F→G→H→I→J

製品の原価は10円で、Aが10円の稼ぎを得るとしたら、
BはAから20円で買います。
そこから一人を介すごとに10円の手数料がかかるとすると、
Jの手元に届くころには価格は100円になりますね。

Jは100円で製品を買い、その100円を、
9人がそれぞれ10円ずつ分けた。そういうことです。
(Aは10円のコストがあるので20円です)

いま、生産したやつがいちばん稼ぐべきではないか?という
感情論は別の場所に置いてくださいね。マクロの視点で語っていますから。
10円を稼ぐ際、実際にはJの一つ手前の I は製品を80円で仕入れて、
Jに90円で売るわけですから、そこで80円のお金の動きがある。

同じことがどの工程にも言えるので、つまり、
A→Jのお金の流れの中に、
20+30+40+50+60+70+80+90+100=540という
お金の流れが存在するということです。

これをJの立場から見ると、原価10円のものを
10円ずつ乗せられて100円で買っているということになります。
100円をそのままAに支払うと考えれば、
BCDEFGHI は中抜きをしている、ということになる。

そういうことですね。

では、もしAが10円の稼ぎを確保するために、
製品を20円で消費者であるJにダイレクトに売ったとしましょう。
Jは同じ物を20円で買うことができ、非常にお得です。

A→J

間に運送業者がいて、10円、
Aの利益を倍にしたとして、製品を30円にしたとしても、40円。
100円で買っていた時よりずっと安いですね。

この方が圧倒的にいいと思えます。
では、このときのお金の流れた量は?というと、30+10=40です。

これはどういうことでしょうか?

お金というものは、使ったらなくなってしまうものではありませんね?
ある人が使ったお金は、別の人の所得として、
この世の中を巡り続けます。

先ほどの10人の社会を、その目的を共存共栄だったとした場合、
前者の場合はAからJまでの全員が収益を得て、
全体が豊かになって行きますが、
後者の場合はBから I までの8人は蚊帳の外です。
仮にBが運送屋さんだったとした場合でも、
Cから I はお金の流れから排除されていますね。

ここで注目したいのは、
今回は買う人がJだったけれども、実際にはAから I までの人も
物を買うことがある経済社会の参加者なのであって、
中間の人を排除していくことは、彼らの購買力というものを
どんどん弱くしてしまうわけです。

そうすると、この10人の社会全体としては
経済的には衰退していくしかない、ということなんですね。

ここ、わかるでしょうか。
そして、これが今の日本なのだ、ということです。

つまり言いたいのは、経済のために本当にいいことは、
ひとつのお金の流れに一人でも多くの人間が絡むこと、
そして、そのお金を貯め込まずに使うこと、なんですね。
もちろん、物価が上がるので、
それを支払えるだけの経済力を皆が持つということです。

今は、全体のパイが小さくなっているので、
皆がお金を使わない様に、貯め込む様に、という心理に支配されています。

だから貨幣観もなかなか変えられないのですが、
実際には、こういうことなんですね。

それをわかっていれば「中抜き」なんて目くじら立てません。
だって、それは最初にそのお金を手にした人がその人なだけですから。
ただ、「そのお金、貯め込まずに使ってくれよな!」ということです。

こう考えると「無駄」という概念は経済的には正しくない、
ということが見えてくるはずなのです。

それがコロナ禍での病床圧迫などでもわかりましたよね?
無駄を排除しようとする動きは、
自分ではない人間を経済的に淘汰することであって、
それこそが新自由主義の真骨頂であり、
我々庶民が、いつのまにかその片棒を担がされているのだ、
という事実に気づいて欲しいのです。

このようにいうと、正当に入っている中間業者は中抜きではない。
何もせずに不当にお金をピンハネしている人のことを
「中抜き」と言っているのだ!
というご意見が「必ず」出てくるのです。

では、その人は何もしていない、ということは、
一体どうやってわかるのでしょうか?

人にはそれぞれに得意なことと不得意なことがあります。
手を使ってものづくりをしたり、
体をつかって力仕事をするのが得意な人もいれば、
考えて商品開発をするのが得意だったり、
人をまとめて、チーム化するのが得意だったり、
人との交渉が得意だったり、奇抜な発想が得意だったり、
険悪な雰囲気の時に、みんなを笑顔にさせる潤滑油だったり、と、
いろいろなんですね。

仕事の流れのいちばん始めの人というのは、
大体の場合、課題だけを持っていて、
いったいどうやったら解決できるのかがわからない、ということが多い。

そうなると、一番最初に相談するのは
「相談に乗るのが得意な人」なわけです。
「無理です」ではなく「なんとか解決しましょう!」と言ってくれる人。
そしてその人が、「それならこうすればいいのではないか?」と提案し、
それを実施するにはすぐにたくさんの人を集められるあの人と、
すぐに場所を確保できるあの人と、資材に詳しいあの人と、
指導者育成が得意なあの人に声をかけよう。

そんなふうになる。

そうすると、たくさん人を集めるプロから、
こういう人材がこういう場所に、これくらい必要なのでは?
という少し具体的なことが起こり、
それが得意なあいつをアサインしよう!となる。

そんなことが各分野で発生して、ようやく大きなプロジェクトというのは
形作られていくわけですね。

そういうのは、やってみなければわからないことですが、
少しでもやってみれば、いかに大変かわかります。

そして、問題になるのは、その傘の構造の中の一部から上を見ると、
二つ以上、上のレイヤーがなんのために存在して、
一体何をやっているのかがわからない、ということです。

そこで「無駄な存在が搾取している」というように見えることなんですね。

私の社会人としての経験上で言えば、
なぜ中間に人がいるんだ、トップと現場だけがいればいいだろう、
と言われて中間の人を排除すると、だいたい勝手がわからなくなって
チームは破綻し、やっぱり今までの構造に理由があったんだな、
と気づくことになる。

そういう例は本当に多いです。

もちろん「中抜き」には悪徳なものもあるようですので、
それは厳しく対応すべきですが、
少なくともプロデュース能力を持つ人が間に入らないと
どんなプロジェクトも回らないし、
それも含めて「運用の問題」なので、「中抜き」そのものの問題ではない、
ということを理解すべきだと思うんですね。

「中抜き」を一切排除したら、この社会は崩壊するし、
いちばん困るのは、決まって現場の人なのですよね。
現場の人に過度な責任を負わせないためにも、
それより上のレイヤーは存在しているのです。

それがわかっているチームというのは、非常にうまくいきますね。

私は本来は気候変動こそが人類の最大の課題だと思っているので、
これ以上の経済への固執には反対なのですが、
そのような意見は、経済的に苦しい立場の人には
とても受け入れられないものです。

背に腹は変えられないですから、
生活が苦しければ、地球環境なんてどうでもいいのです。

だからこそ、まずは全員がお金の心配をなくすことが必要なんですね。

SDGsの基本コンセプトが
「誰一人取り残さない」であることや、
貧困、教育の格差を縮めようとする意図が
環境課題の解決と同列に入っている意味が、
これでわかるのではないでしょうか?

まずは、考える余裕、他者を思いやる寛大さを取り戻すために、
経済的格差を埋めることが急務であり、
そのためには、我々自身の貨幣観を刷新していく必要があるのです。

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