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人権を奪うとはどういうことか

「人権」という言葉を聞いて、どのような印象を受けるでしょうか。
普通は、不当な扱いを受けないとか、自由が保証されているとか、

そういうイメージではないでしょうか。

もちろん、それもわかりやすい姿だと思います。

しかし、今日は、普段はなかなか気付きにくい
人権の本当の姿をお伝えしたいと思います。



例えば、あなたの目の前にデモ行進の一団がいたとします。

その人たちは原発反対か、あるいはオリンピック開催反対でもいいですが、
暮らしの便利や、娯楽に対する反対を表明しているとします。

あなたは、「なんだかつまらないことを考えている人間だな」とか、
「鬱陶しいな」とか「ややこしい連中だな」と思うかも知れません。
そんなこと考えるより、目の前の自分のことをちゃんとやれよ、
と思うかも知れないですね。

どうでしょうか。

ここで重要なのは「そんなこと考えるより・・・」という部分です。
そんな余計なこと考えなくてもいいから、と。

ここで起きている思考停止の正体は一体何か
ということを掘り下げたいのです。

人は誰だって娯楽を享受できることは、とっても楽しいし、嬉しいし、
他の小難しいことや課題について考えるのは気分が暗くなるから、
できれば気楽に娯楽に興じていたいと感じるものです。

けれども、なぜその「自然に湧き出る感情」を制してまで、
問題意識を持つのか。

それは、それこそが「人権意識」だからなんですね。

何が言いたいかというと、人権とはあくまでも概念なので、
考えることによって生まれるし、考えなければ奪われるものなのです。

ここ、ちょっとややこしいですが、言葉で伝わるでしょうかね。



人権という意識は、太古の昔からあったわけではなくて、
二度の世界大戦という凄惨な過ちの中から
人類が生み出した新しい概念であって、
これは、もっと欲しいとか、対立したいとか、
他者から奪いたいというような、
人間が経済社会の中で自然に考えてしまう欲求というものを、
理性や知性で抑えようという試みな訳です。

つまり「人権」は「思考・考えること」とワンセットなんですね。
考えるのをやめるということは、
自分の人権を放棄するということなのです。

逆に言えば、人民を統治したい連中の立場からすれば、
「考えさせなくする」ことで、
民衆の人権を奪うことが「簡単に」できるわけです。

なので、デモ行進を見て「へんな連中だな」と思う気持ちと、
「何を訴えたいんだろう?」と思う気持ちの間には、
その人が「人権」を放棄しているか、していないかのちがいがある、
ということなのです。

「人権」とは、意識したその瞬間から、
「人権保持のためのアクション」とワンセットになっている、
ということなのですね。

実に面倒くさいことです。

天賦人権論、「人は生まれながらに人権がある」と聞くと、
なんの苦労もなしに権利が保障されているように聞こえるし、
誰もそれを侵害しないように感じますね。

だから、何もしなくてものんびり好きなことだけしていればいいんだ、
と思ってしまいがちです。

しかし、人権は放っておくとすぐに権力者に奪われてしまうので、
そうならないように不断の努力をしろと、日本国憲法も言っていますね。

憲法第12条です。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

ほら、ちゃんと書いてありますよね。

で、この「権力者が人権を奪う」というやり方が、
想像では非常に暴力的なものをイメージしてしまうのですが、
実際にはその真逆であって、ものすごく楽しそうな雰囲気で迫ってきて、
考えるのを止めさせる、というやり方をするものなのだ、
ということなのです。

今の日本では、多くの人が人権を奪われているのに、
それに気付いていないということなんですね。

気付いていない人は、気付いた人がアクションしているのを見ると、
なぜか生理的にとても不快な気持ちになるのです。

先ほど例に挙げたデモ行進などが顕著な例ですね。
選挙活動をしている人なんかにも、不快さを隠さない人はいます。

そうなるように、設計され、インプットされているんですね。
気づかない間に。

それは、主に民放のテレビでドラマやワイドショーを見たりして、
くだらないことで脳細胞をいっぱいにすることで、
本当に重要なことを考えないようにさせる、という方法で行われています。

これはアメリカが戦争の後、日本を上手に占領統治するために
トルーマン大統領によって実行された
3S(スリーエス)政策から始まっています。

三つのSとは、Screen、Sports、Sexです。
映画やスポーツ、性という娯楽で人々を堕落させ、
国家などについてあれこれ考えさせないようにする、というものですね。

娯楽で精神に麻薬を打つようなものです。

この政策は、日本では大成功してアメリカの成功体験になったようですが、
その後、どこの国でも占領統治は成功していません。
日本だけが、まんまと罠にハマったというわけです。



歴史の話はさておき、生存権を主張する人を鬱陶しく思ったら、

例えば給付金を出せと国に訴える人を
「クレクレ主義」などと揶揄したくなったなら、
自分は国の思想統制にはまっていると思った方がいいでしょうね。

なぜなら、そう感じることこそが、
人権を国に奪われているという事実の証左だからなのです。

人権を主張する人間を排除しようとする心理的傾向は、
権力者によってヒタヒタとあなたの脳や
思考回路に埋め込まれたものなので、
自分自身ではなかなか気づくことができません。

特に日本は島国ですし、
ディスカッションをするという文化がないですからね。
考えを内に秘めて口に出さないことを美徳と思っていますが、
その美徳さえもが、統治のための便利な道具に使われてきたという
我が国の歴史の側面を知っておくべきだと思います。

それは、今でも続けられているし、
いやむしろ、第二次安倍政権以降、その傾向は強まってきたからです。

人は人権を奪われると、つまり思考を奪われると、
あなたの人権を奪う政権に、
自ら投票するという愚行を行うようになります。

麻薬患者が、自分を破壊する麻薬を打ち続けるように。

麻薬を欲するからと言って、それは「民意」とは言えないわけですが、
民主主義の多数決という弱点を利用して、
彼らは権力を維持しようとするのですね。

ともあれ、人権を奪われている人は、
そのことに気づかない場合が多い、ということを覚えておいてください。

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