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自分を知る。決めつけない。単純化しない。結論を急がない。

人間というものは、よく他者の考えのことはいろいろ言いますが、
果たして自分のことはどうなのでしょうか?

棚に上げている、という意味ではなくて、
自分自身のことはよくわかっているのでしょうか?

自分なのだから、自分のことは自分がいちばんわかっている。
ハナからそう決めつけてしまって、
自分の考えについてしっかりと向き合ってみることを
していないのではないでしょうか。

自分という人間をしっかり理解している人というのは、
実はとても少ないのではないかな、と想像します。

もちろん私自身もです。
そう考えると、この世の中とは一体どういうものなのでしょうね。
ある意味で、神秘的な気持ちにさえなってしまいます。



世の中には「自分の考え」というものを大別するいくつかの種類があって、
その中にイデオロギーというものもあります。
保守とか、リベラルとか、そういうものですね。
でも、そういうものでさえ、自分の考えと完全にフィットしている、
と感じるものはないのだと思います。

どうですか?

自分の考えというものが1から10まであるとして、
それがすべて一致している、というものはないはずです。

しかも1から10という自分の考えを自分自身が把握していないし、
状況によって考えそのものが変わっていくものですから、
もう何を足がかりにしていいかわかりませんよね。

私自身、いろいろ自分の中で考えらしきものがありますが、
それらを具体的に口に出してみると、
人にとっては矛盾しているものに聞こえるはずで、
でも、自分の中には何か一本通った筋はあるという感触はあって、
果たしてそれが何なのか、ということを探ってみたくなるのです。



私は人がもっと他者のことを思いやれればいいのに、と思いますが、
その思いは自分にも向けられています。
つまり私自身がそれほど思いやりのある人間ではないとわかっている。

でも、そう感じていることも事実なのです。

では、その部分を掘り下げてみると、あることがわかりました。
私は他者への思いやり、つまり他者への優しさを持て、とは
必ずしも思っていないのかも知れない。

そうではなくて、他者がどうして自分とちがうのか、という
メカニズムを理解すべき、と思っているようなのです。

つまり、互いが自分の主張を持つのはいいとして、
それをただ単にぶつけあってもほぼ100%解決策はみつからないので、
それぞれがちがう主張を持つに至った
背景や事情をお互いに理解することで、
その落とし所を見つけることはできるのではないか?と思っている。

そういうことです。

自分とちがう人間の気持ちになることはできなくても、
なぜそう考えるのかを
理解することはできるかも知れない、ということです。

相手の考えに同意はしないけれど、
そう考える理由は理解できるという意味ですね。

なぜなら、自分の今の考えだって、
自分の性格と環境の掛け算でできているので、
環境がちがっていれば考えはちがっていたかも知れないと思うからです。



そう考えると、自分が憤りを感じるのは何かしらの考えそのものではなく、
他者を「決めつける態度」であることがわかってきました。

体育会系はこうだ。オタクはこうだ。
金持ちはこうだ。保守はこうだ。リベラルはこうだ。

そういう決めつけに対して、違和感を感じるわけです。
そうすると「いや、必ずしもそうではない」と言いたくなる。
自分の考えの中にはどうやらそのようなバックボーンがある。
それにはそう考えるに至った事実があるからで、
だからこそ、その事実から類推する想像力がある。

先日も会社の中で若手の連中が、ろくに仕事をしていない(ように見える)
デスクでYouTubeばかり見ているベテラン社員を
「YouTubeおじさん」と言って、
そんな人間は淘汰されるべきだ!と声を荒げていたのをみて、
胸騒ぎがしたんですよね。

確かに、仕事に忙殺されている若手から見たら、
何もしていないベテランがムカつくのはわかるのです。
しかし、そのYouTubeおじさんは本当に悪い奴なのでしょうか。

彼が責められるべき理由は、彼の行動に生産性がないからでしょうか?
では生産性がなければいけないというモノサシは絶対に正しいでしょうか?
それはもしかすると思い込みかも知れないですよね。

もちろん少なくとも今のルールでは彼の行動は褒められたものではない。
けれど、それなら私は思うのです。
なぜYouTubeおじさんはYouTubeおじさんになってしまったのか、と。

なぜなら、YouTubeおじさんも
若手の頃は自分がそうなるとは想像してなかったろうし、
彼に文句を言っている若手も
将来YouTubeおじさんにならない保証はないのです。

赤ちゃんを見たら多くの人は笑顔になりますね。
その存在が希望に満ち溢れているからだと思いますが、
その中の何人かは必ず希望通りではない人生を送るし、
社会の落伍者になったり、犯罪者になったりするのです。

それは、この赤ちゃんが悪いからですか?
赤ちゃんのせいだけではないはずです。・・・よね?

だとしたら、YouTubeおじさんがなぜYouTubeおじさんになったのか、
ということと向き合う必要がある。

YouTubeおじさんと向き合って、もっと話し合う必要がある。
話し合うといっても、ちょっとやそっと意見を聞くぐらいではダメです。
だって、YouTubeおじさんは恐らく自分のことがわかっていないからです。
なぜ自分がYouTubeおじさんなのかを。

そこと向き合って、
YouTubeおじさん本人さえもがわかっていなかったような
自分の奥底にある何かを発見できるまで話し合う必要がある。
自分の本当の思いを発見しない限り、何を解決すればいいのか、
という本当の「患部」がわからないからです。

私が思うには、それは「会社が自分を必要としていると思えなくなった」
という感情の末路が、今の姿なのではないか?というものです。

彼をYouTubeおじさんでなくするには、会社が彼を必要とすることです。
そんなのは自分でやることだ!と思うかも知れません。
それは正論ですね。
でも、正論だけでこの世はうまく回らないのです。

いくら正論が美しく正しくても、そこにYouTubeおじさんは実在するし、
彼がYouTubeおじさんでい続けるよりも、
自分の才能を発揮して、目を輝かせて何かをしている方が
彼自身にとっても、社会全体にとっても絶対にプラスなのです。

だとしたら、若手の言うことを聞いて彼を排除することは
解決策としては圧倒的にまちがいなのです。
真の解決策は、
YouTubeおじさんが生まれないような環境を作ることですから。

YouTubeおじさん問題は、
YouTubeおじさんを排除すれば解決するわけではないし、
YouTubeおじさんを排除したら若手は心から幸せになれるか?と言ったら
恐らくそうではなくて、今度は自分が排除されないようにするために
心を無くしていくしかないのです。
だって、他者にやったことは自分もやられるかも知れないから。



私が興味が湧くのは、YouTubeおじさんと、
彼を批判する若手というそれぞれの主張が存在する理由を理解し、
原因を理解し、それぞれがなぜそうなるに至ったのかを究明して
そこを変えたい、ということです。

若手がYouTubeおじさんに不満を持つのは、
実はYouTubeおじさんが矛先になっているだけで、
若手自身が抱えている不満があるからなんですね。

恐らく、自分の働きに対する十分な評価が得られていない、
という気持ちではないでしょうか。
私も若い時分にはそんなことを考えたこともありました。
いるだけに見える中間管理の人に不満を抱えたものだし、
企業側からの様々な締め付けを受ける中で徐々に溜まる鬱積した気持ちが
どこかにはけ口を探してしまうもの理解できる。

その不満がなければ、
きっとYouTubeおじさんのことなんか気にしないですから。

そしてこの分断は、恐らく現代社会の縮図なのだろうと感じるのです。

だから私は思うのです。相手のことを決めつけるな、と。
物事を単純化して、簡単に結論を求めようとしてはいけない、と。

自分の意志を持つことは大切だし、
自分で考え、判断する力を持つことは重要です。

しかし、だからこそ、判断するにはしっかり考えることが大事だし、
しっかり考えるとは、いったいどうすることなのかを知っておくべきです。

それは、視点を上に上げることです。
今、私とあなたが対立しているとしたら、
主観的に意見をぶつけるだけではなくて、
私とあなたが対立していること、その全体象を上から見てみて、
その現象全体を把握し分析することが大事なのです。

そして、できればその情報を相手と共有することです。
そうすることで初めて、考えのちがう相手と協働して課題を解決するという
めちゃくちゃ困難なミッションが遂行できる可能性が出てくるのです。

決めつけないこと。
単純化しないこと。
結論を急がないこと。

これが人間としての知性的な態度だと思います。
そして、その反対、つまり、
決めつけること。
単純化すること。
結論を急ぐこと。
は、反知性的な態度だと思うのです。

もちろん、考え込んでばかりで何もできないことはいけない。
そうすると返ってイライラが募って感情的で過激な動きにつながります。

そういうとき重要なのは、「やってみる」ということだと思います。
やってみて、そこから学んで修正を加える。
修正をするときに、どちらか一方の意見だけに合わせるのではなく、
協働しながら、
「対立」を最小限にする場所を見つけるために一緒に考える。

そういう営みが、この世を変えていくのではないでしょうか。

きっとできると、私は信じています。

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