新国立劇場で『エウゲニ・オネーギン』
ドミトリー・ベルトマン演出
主語が多数ある作品。それぞれの主語の構造化。オネーギンとタチアナどちらに寄せるというより、対比や上下、愛情訴求、拒否という構造自体を楽しむ、第一幕と第三幕の対比などわかりやすい
ロシア文学における「余計者」が近代化の狭間のなかで生まれたとすれば、日本の大正文学、漱石における「高等遊民」に重なるところもありそう。
オネーギンによるタチアナへの愛は、自らを「なんらかの存在」にしたかったことが隠れた動機であり、それを見抜いていたタチアナに拒否されたと考えていいのではないか。
舞台美術にそこまでの技巧はないが、第一幕の建物の内と外の使い方は興味深い。使われていない部屋のドアが開いている様子はハマスホイの絵画作品を思い出させた。
煮られているジャム、多数あるジャムの保管瓶は単なる舞台装置か?何らかの象徴なのか。
神殿風の柱廊門がモチーフになっている意味はあるのか。
第二幕で柱廊門が割れたのにはちょっと驚いた
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