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東浩紀『訂正可能性の哲学』

つい昨日に発売された、東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン、2023年8月)と『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン、2023年6月)を読んだ。

私はこの著者のよい読者ではない。『訂正可能性の哲学』もよい本だと思えなかった。ルソー、プラトン、ポパー、ウィトゲンシュタイン、アーレント……といった有名な哲学者の代表作をいきなり読んで(つまり近年の研究などはほとんど参照せず)、過度に単純化しながら連想ゲームで「ゆるいつながり」を作っていく。確かに読みやすいし、なるほどこういうふうに読ませるものかと感心させる部分はある。しかしそれは哲学的には意味のないレトリックを超えるものでない。もちろん一般向けの著作だから細かい解釈でどうこう言わずとも、何かオリジナルなアイデアが展開されていればそれでよいのだが、今回は「訂正可能性」という言葉でなんでもつなげている(たとえば第一部の鍵となる「家族」という言葉だが、こんなやり方ならばなんだって家族になるだろう)。過去の著作との関係もいろいろ示されて、自身の集大成といえば聞こえはいいけれど、単純にアイデアもネタも枯渇していると思った。新しく参照される論者も、ハラリとかトッドとか、そんなのでは仕方ない。嫌な言い方になるが、日本語になっているものだけ読んでいてそうそう面白いアイデアが出てくるはずもない。

ポパーへの言及などもいかにも古臭く、科学の基礎が「反証可能性」であるならば人文学の基礎は「訂正可能性」であるといった、ほとんどダジャレのような話である。その反証可能性にしたところで、これは一般理論の不可能性を示すものであって、ある理論の内部では個別の言明の真偽は決まらないといった、1980年代に柄谷行人がやっていたような胡乱な科学論をそのまま繰り返している――肝心の「訂正可能性」も、柄谷のこの当時の「内省と遡行」をさらにポピュラーに言い直したという以上のものではない。

柄谷行人はその後、ある程度はアカデミックに読みうる方向にシフトしたし、何より英語で意識的に発信することによって、相応の成功を収めていった。東浩紀が今後そういうことをするかというと、もちろん先のことはわからないものの、あまりそんなふうにも見えない。このドメスティックなポピュラー哲学路線では東は今のところ圧倒的な位置にあるし、今後十数年ぐらいはこのままでいって、本人は逃げ切れるだろう。『ゲンロン』というプラットフォーム自体、同じようにしてしばらくは人気が続くだろうし、それ自体は市場開拓していてえらいと思うものの、本書で述べられている「閉じた家族」を超える何かがあるのかというと心もとない。

『観光客の哲学』のほうは法・政治哲学への言及が多いので私にはより内在的に読めるのだが、これも、いかにも古臭い話を持ってきて「実はこうなのだ」と見栄を切られてもなかなかきついものがある。たとえば「リベラル・コミュニタリアン論争」のように専門的にはいまやほとんど言及されなくなったものを、何か重要なムーブメントであるかのように書くような箇所がそうである(文献も大昔のもの)。もちろん、それを再評価することで何か面白いものが出てくる可能性はあるのだが、そのためには若い法・政治哲学の研究者ともっと交流すればよいのにと思う(全体的に、社会科学諸分野との接続がなされていない)。しかし、単に人脈の問題というより、そんなことしていても売れないから、と意識的に拒否されているようにも見える。それでは知的に尖鋭な(かつて『批評空間』を読んでいた東のような)読者は得られないだろうが、そんなのはマーケティングの対象でないということであれば、まあとても残念なことだと思う。