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「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない

「嫌われる勇気」を読んで、私が心に残ったフレーズである。

本を要約すると以下の通りになる。

我々は他人の期待を満たすために生きているのではありません。他者は私のために生きているのではなく、私は他人のために生きているのではない。誰のために生きているのかというと、もちろん自分のために生きています。他者からの承認を求め、社会からの承認を求めた人生は非常に辛いものになります。他人の目を気にし、評価を気にし、「わたし」というものを抑えた生き方になり、最終的には他者の人生になってまう。

同時にユダヤの教えを紹介していました。こちらも紹介しておきます。

「自分が自分のために人生を生きていないのであればいったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」

振り返り(高校)

学生時代に一度読んだアドラーの考え方は非常に心に刺さるところがあった。私は親や友人、周りの評価を気にしながら生きていたからだ。

学生時代には親に「国立に行ってくれ」という言葉にひたすら執着し、国立大学を目指した。今考えると確かにお金という点では国立ということを考えるべきだったが、「自分の人生のため」という視点にすると国立という点ではなく学部や学科、その大学の特徴という見方をするべきだったと思う。

一応断っておくが、「国立に行ってくれ」といった親を責めているのではない。その視点しか持つことができなかった自分の視野の狭さの振り返りである。

振り返り(大学)

就活において親は「学生時代に学んだことを生かした職に就くべきだ」と言っていた。また学生課の職員は「就活は自分が何をしたいのかではない、社会にどんな価値を与えたいのかだ」という。どの言葉にも私は踊らされた。というよりも、「自分」というものをもっていなかった。就職して、私は「自分がやりたいことをするべきだ」と考えていたことに気づいた。ただ、この考えは一部正しく一部正しくないのではと思う。

自分のため、他人のためというバランス

ラッセルの幸福論の話では「自分の幸福と、社会の幸福が一致していなければ本当の幸福にはなれない」という。これについては全面的に同意する。

わたしは何のために生きているのかと問われれば「幸せになるためです」と答える。だが、自分のためだけに生きているのではない。周りの人や社会にいる人と支え合って生きている(べたな言い方だが)。もちろん、誰かのためだけに生きているのではない。要はバランスが大事ではないか。

私はIT関係の仕事についているが、「人のため社会のため」という風には考えずに就職した(今は別の視点があります、、)。友人が自分のアイディアを具現化するそのプログラミングというものに惹かれたのである。自分の考えの通りにプログラムが動く。そのコストの低さ。鮮やかさに惹かれたと思う。

しかし、今では自分のためだけに仕事をしているのではない。お客さん、会社の仲間。そして自分。それぞれのことを考えて仕事をしていると考えている。そのバランスを崩してしまうとダメになってしまうのではないか。

自分の幸せ=相手の幸せを追求してみんな生きているのではないかと今は思う。

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