完璧に制御されて自由
能動態からの脱却
能動態ほど不自由なものはない。
真っ白な紙を渡されて、「さあ、自由に描いていいよ」。
その時に「何を描いたら良いんだろう?」と悩み、たまらない不自由さを感じる。
能動態とはきわめて不自由だ。
動きにしてもそう。能動態の動きは筋肉がこわばり、姿勢が歪み、エゴが全身の毛穴から噴出して、まったくもって不合理だ。
だから能動態ではなく、受動態。
そう言ってきたのだけど、受動態といっても単なる受け身ではない。大海を渡るヨットのように、風や潮の力を借りながらも自律性を保って、目的地に向かわねばならない。だから一方的に受け身に回る受動態というわけでもない。
ある時、「中動態」なる言葉があることを知人に教わったので、この本を読んでみた。
最後までざーっと読んだけど、期待したようなことは書いてなかった。では僕は何を期待していたのだろうと考えてみた。
そもそも僕たちは、生きているのか、生かされているのか。その謎にちょっと迫る手がかりがあるんじゃないかと期待していたのだ。
僕たちは毎日、無数の選択をしている。
その選択は自ら選んでいるのか、選ばされているのか。
その多くは、おそらく選ばされている。その時の事情、状況、あるいは自らの思考パターンによって、思考するまでもなく選ばされている。その無自覚な受動的選択からの脱却が自由への道なのだと。そう考えたら確かに能動態が自由への道と思える。
ただ受動態に感じる開放感、自由な感じはなんなんだろう。
古来の宗教にしても、武術にしても、究極の結論は受動態を思わせる。
神道なら「惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)」
キリスト教なら「あなたがたのうちに働きかけて、その願を起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ人への手紙2:13)などなど。
仏教の「南無阿弥陀仏」もそうかも知れないし、老子の「天行健、君子以自彊不息」が近い気がする。
要は天とか神様とかそういう、なにか超越的な作用によって動かされている感覚、生かされている感覚というのがあるんだと思う。
それは他者に完全に制御されていながら、完全に自由であるという状態。アンビバレントなようでいて、不可分の状態。トレーニングではプッシュ&ムーブで相手の動きを受け入れて返す時に、その感覚のほんの片鱗に触れることができる気がする。というかその感触をいつも感じているからこそ、能動態からの脱却に心を砕いているのだろう。
完璧な自由は完璧な受動から生じる。
完璧に受動するとき、自らは空っぽの器となっているのだろう。もしかしたら器すらいらないのかも知れない。その時、僕たちに何が残るのか。僕たちは何を受け入れるのか。おそらく受け入れる他者とは同時に自分自身でもあるのだろう。
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