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どうやら「亀山八幡宮」について勘違いしていたようだが、調べても謎は深まるばかりで真実に辿り着けない件

昨日、3つの参拝ルートを紹介した東広島市安芸津、榊山八幡神社。冒頭に由緒書き載せるつもりで調べ始める、長くなってしまったので別記することにした。

最初に言っておくが、自分はどうも「亀山神宮」について 勘違いしたまま 小梨の記事を書いていたようだ。そのことが明らかになっていく過程を記す。

これは誰でも自由に発信ができるネット社会において、情報発信力の差が素人に誤解を生んでしまった1つの事例である。

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「榊山八幡神社」もともとは「亀山八幡宮」という名であったそうだ。

小梨名水脇にあった神社と同じ名前だ。榊山八幡神社は豊後国との境、豊前国南東端に位置する(大分県宇佐市)宇佐八幡宮から勧請されたものと伝わっている。

小梨の亀山八幡宮は、「小梨城主が小梨城を築城した際に、守神として武神である八幡様をお祭りしたもの」だと自分は推測している ※詳しくは、こちらの記事

この「亀山八幡宮」は、下関にもありホームページには「平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。(享保年間「防長社寺由来」記載)」と由緒が記されている。

この由緒を読んで

「宇佐八幡宮が下関を経て以降は、亀山八幡宮という別名を持ち、京都へと東進する道すがら立ち寄った様々な場所に同名の『亀山八幡宮』ができたのだろう」と想像したのだが……


しかし今回の榊山八幡神社は、「用明天皇の御代(五八六〜五八七)」に勧請されており(てっきり総本社だと勘違いしていた)下関より前なのだ。下関・亀山八幡宮は「平安時代・貞観元年(859)」つまり清和天皇の御代(八五八〜八七六)と300年近い開きがあることに気が付いた!!!


検索で一番に出たきて、ホームページも充実していたから

勘違いしていた。


そしてどうやら、下関の亀山八幡宮も総本社は宇佐の「八幡宮」のようだ神社人)。総本社、宇佐八幡宮は「571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に
ご示顕」になられ725年(神亀2年)に御殿造立(由緒 宇佐八幡宮)・・・あれ


 整理しよう!

571年  宇佐、応神天皇のご神霊であり御祭神である八幡大神さま ご示顕

586or587 安芸津、時の執権が亀山八幡宮を勧請

725年  宇佐、現在の地に宇佐八幡宮の御殿 造立

859年  下関、都守護のため京都に勧請される途中に、御信託あり仮殿 造営

 現在の宇佐八幡宮の御殿ができる以前に、勧請されている!!!


どういうことだろう。

①なぜ、現在の宇佐八幡宮の御殿ができる以前に安芸津に勧請されたのか

神様を「意思を持って存在している」と考えても、人の口を通して神意を発言されるのでどうしても利害関係が生まれてしまうだろう。そこで八幡大神さまのようにもともとの人格を有するタイプの神様は、古代のアニミズム信仰の中で神聖視される場所がご神体となった(奈良県の三輪大社のような)神様と違って、特定の場所を設けることなく約150年もの間、様々な場所を転々としていたのか。

この仮説は、同じような特徴を持つ他の神様について調べれば分かりそうだ

②なぜ「亀山八幡宮」は全国にあるのか

神聖視している小島や丘のような小高く盛り上がった地形を指して「亀山」と呼んでいて、その場所に八幡宮を勧請する人が多かったため偶然にも全国に同じ名前の神社があるだけで、亀山八幡宮の総本社は存在しないということなのか???

現在の宇佐八幡宮の御殿ができる以前は「亀山八幡宮」=「宇佐八幡宮(仮)」を名乗るのが主流で、全国に社殿候補として建てられた(あるいは、後に本家以外の場所は亀山と改称された)とか

こればかりは、亀山八幡宮の大元がない以上は宇佐八幡宮に行った際に確認するか運良く八幡大神の研究者に遭遇するかしないと・・簡単には分かりそうにない。まあ焦ぐものでもないので、ゆっくりとnoteを続けていれば真実に辿り着けると信じて気長に続けていこうと思う。

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