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タダで贈るよりも高いものはない(ただしリターンはないと心得よ)

エコノミックアニマルである僕たちは、常日頃、経済原則のことを考えて生きています。これをするのはそれだけの価値があるのか? 投入する労力に見合うのか? 

この文脈で至言だと思っているのは、このライトノベルのセリフです。

損得勘定は我らの共通の言語。それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ。
(『まおゆう魔王勇者』)

経済感覚というのは、言葉が通じない二者の間でさえ、交渉を行う場合の確固たる原則です。むしろ、経済的に見合わない決定する相手を軽蔑するほどの勢いです。お買い得なオファーを無視する相手も、高い価格設定をそれと気づかずに受け入れる相手も、どちらも等しく「人間的知性のないやつ」のようなものです。

ところで、最近勃興している経済観に、これと異なる文脈のものがあります。贈与経済というものです。

以下は上記書籍を読んで感じたものをまとめたものです。相当に僕の主観が混じっているので、純然たるまとめノートではないことをご了承ください。

損得勘定の欠けている部分

さて、贈与経済は資本主義経済の市場原理の不足を補うしくみとして導入されています。

顕著なところでは、生まれたばかりの赤ん坊ですね。親は赤ん坊にありとあらゆるもの(財、サービス)を提供するけれど、その対価として何も求めない。むしろ、求めることができない。赤ん坊には支払い能力がない。

赤ん坊に「ミルクが欲しければ働け」という人はいません。というか、いたら相当ヤバい人です。

「生まれてすぐにはなにもできないから、他者の助けを必要とする」のは人間の赤ん坊の特徴。他の哺乳類は生まれてすぐに歩くことができます。そう考えると、人類は「他者からの贈与」と「他者への贈与」を前提として存在していると言えそうです。

人間は決して、エコノミックアニマルに生まれるわけではないのです。成長してエコノミックアニマルになってしまうのです。けれど、価値の等価交換のみを原則しているわけではない。「与えられる」ことなしに生きられない時期を、すべての人類は経験しているのです。

これまでの経済的な理屈において、この点が軽視され続けてきたというのは興味深いですね。

損得勘定が不在である「べき」ところ

赤子に限らず、大人でも、人の手を借りなければいけない状況というのは生じえます。問題が発生し、誰かに「助けて」と言わなければならなくなったときこそ、交換経済の論理ではなく、贈与の論理が必要になります。

なぜなら、そもそも問題とは、人々と交換できるものを失ったときに起こるからです。しかし、交換の論理が支配的である人ほど、助けを求めることができない。

悲しいかな、「自分に価値がない限りは人に救ってもらえない」と考える律儀な人ほど、気軽に人を頼みにすることができません。もしかしたら、そういう人は、幼少の頃から親などに対価を要求されていたのかもしれません。親の家に住む対価、食事の対価、学校生活を送る対価……。

多くの、いわゆる「正常」とされる家庭では、子に与えられる便益に対して、その支払いを求めません。ところが、交換経済に支配された環境下であれば、その代価を「いますぐ」に求めることになります。

どのような形式の贈与であれ、相手に「必ず」届くことを要求し、「いますぐ」に返礼することを求めてしまうと、どう言いつくろおうと事実上の交換へと変わってしまいます。

家庭においては、衣食住が必ず子に届くことを求めてはいけないし、すぐに返済するよう求めてもいけません。けれども、いわゆる機能不全な家庭においては、このルールは容易に違反されます。

贈与が失われ交換のみになったとき、家族のようなシステムは破壊されることになります。

贈与の時間軸、および贈与の倫理と想像力

では、贈与を行う者は、どういった世界観でいきているのでしょうか。

本書では、贈与の受取人は「自分は不当に受け取ってしまった」という贈与のプレヒストリーの中で生きているといいます。物心が付くころには親から無数のものを受け取っていて、贈与的な負債の状態に陥っている。ゆえに、他者へ贈与のパスを繋ぐことで、受け取ったものに対する返礼を行おうとする。

もし、贈与のプレヒストリーがない場合、たとえば、何らかの形で親が子供に養育の見返りを求めていた場合などは、その子は贈与経済の価値観を獲得しづらいといいます。その子は資本主義的な交換経済の価値観で生きることになります。この場合、この子が他者へ施すことは贈与ではなく自己犠牲となってしまいます。それはそうでしょう。この子は人に施すたびに、強い損失の感覚を経験するのでしょうから。これは早晩破綻します。

前項のとおり、感謝を求める贈与は贈与たりえず、単なる交換となります。そのため、贈与の差出人は贈与時点ではそれに気づかれてはいけないことになります。贈与の受取人に返礼の義務を発生させてはいけないのですから。とくに、贈与の受取人に支払い能力がないのに返礼の義務を生じさせた場合、その贈与は呪いとなります。

また、贈与は必ず相手に届くわけではない。「これは贈与だから受け取ってね」と言ってはいけないのだから、当然、受取人が取りこぼすことがあります。その点で、贈与の差出人は贈与がいつか届くことを祈るしかないのです

一方で、受取人は、かつて自分が受け取っていたものが誰かからの贈与だったのではないかと考えるだけの、想像力が必要になります。想像力のない者は、自分が誰の厚意によって生かされてきたのかに気づくこともないのでしょう。

以上をまとめると、本書では、贈与は差出人にとって未来へと送るものであり、受取人にとっては過去から送られてくるものであるとされています。面白いですね。贈与の時空は、われわれの通常の経済感覚とはまったくことなるのです。

贈与のコミュニケーション的性質

贈与というものの顕著な例は、まさにその名のごとく、プレゼントです。これは、贈与を介することで物の意味合いが変化するという、興味深い現象です。

本書の例を借りれば、誰かから受け取った時計は、市販されている同一の時計と同じ価値ではないのです。そこで加えられた意味合いは、金銭で購入することができないのです。こういった意味で、本当の喜びというものは、金銭で購入することはできないことになります。

一方で、悲しいことに、贈与が受け取り拒否されるという事態はたびたび発生します。贈与はコミュニケーション的性質を帯びるため、贈与の受け取り拒否は差出人にとって「関係性の拒否」を意味します。逆に、贈与を受け取ってもらえたということは、差出人にとっての喜びとなります。

贈与が成立するということは、差出人も受取人もともに幸福になるということになります。にもかかわらず受け取らないということは、受取人はその便益を放棄してまで、差出人との関係を拒絶したいのだということになります。こう考えると、与えるということは相当に勇気がいることです。

贈与の不合理性

ここまで述べてきて、贈与というものは、等価交換の経済とは相当違って見えてきます。相手に届くことを望んではいけない、すぐに返済を求めてはいけない、そして、与える方に心理的負担を要求する……。

贈与を受け取って大きくなった人は、自分の人生を振りかえって、資本主義社会においてのアノマリーとして、過去の贈与のあれこれが浮かび上がってきます。不合理であるからこそ、贈与の受取人は間接的に贈与の存在を発見するのだと本書はいいます。

そして、「もし自分が気づかなければ、この贈与は存在しなかったことになったかもしれない」と理解することになります。これは、本当に気づけば恐ろしいことだと実感できると思います。そして、いてもたってもいられなくなり、返礼として自分も他者への贈与を開始するようになります。

世界にはアンサング・ヒーロー(謳われぬ英雄)が存在する。アンサング・ヒーローは何の報酬もなく贈与を行い、また、なんの制裁も受けないのです。自身の意思のみによって贈与をくりかえし、誰にも気づかれない。このような人たちが、交換経済の穴を埋めている。

アノマリーを通じてこのことに気づいた受取人は、贈与のプレヒストリーを自身の中に構築し、自身もまたアンサング・ヒーローの一員となるのだといいます。

こうして、人は与える側になるのです。

そういえば、上に挙げたライトノベルのセリフには続きがあります。

— 損得勘定は二番目に強い絆だと仰っていましたが、一番は?
— 知れておる。愛情だ。子供でも知っておることだ。
(『まおゆう魔王勇者』)

僕らはエコノミックアニマルとして、経済原則に則りビジネスをつくり出し、それを回しています。損得勘定にもとづいて合理的判断を下します。けれど、僕らの暮らしの中では、その間に抜け落ちるものがどうしても生じてくるのです。

経済感覚は確かに真っ当な人間にとっての共通言語ではあるけれど、それとは違う意味での、もうひとつの真っ当な——人間らしい——人間であるゆえに、経済感覚にそぐわない形で人々にさまざまなものを与えていくのだと思います。

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