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遅読家は読書のディスコで踊り狂う夢を見るか

 芥川賞受賞作が発表されてすぐ、朝比奈秋さんの「サンショウウオの四十九日」を、Kindleで購入して読み始めた。

 頭から下肢までの半身同士がくっついた、一見して一人の人間のようだが、実は結合双生児である姉妹、杏と瞬が主人公の作品だ。設定からして斬新だが、私が注目して読んだのは作中の「視点」の変化である。

 読み始めて四割進んだところで、正直「離脱を我慢」しながら読んだ。描写を簡単に言うと「瞬の視点で進行する場面で、頭の中に杏の思考が流れてきて、それを感じ取り見つめる瞬の思考」のような感じ。

 物語の途中途中で「今、誰の視点?」という考えが過ぎる。これを読書における「ノイズ」と感じる人は、私だけではないのではないか。しかし、この視点の変化を文章に落とし込むのも、相当見せ方を考えたに違いない。朝比奈さんの挑戦が見える作品だった。

 そもそも、この作品に限らず、私は本を読むのが遅い。いわゆる「遅読家」だ。書くのも遅けりゃ、読むのも遅いとなると、本当に文筆業は向いているのかと疑うのも自然だろう。

 遅読の原因のひとつは、やはり「サンショウウオの四十九日」を読んでいて感じたように、読書の端々で何かを考えてしまっているのではないか、ということ。たとえば、文章を読んでいて、一発で理解できないことが多い。

 登場人物が直前に何をしていたのかが思い出せなかったりもする。この人誰だったっけ、というのもある。そういう時は実際にページを戻って確認したりもする。結果、全然読み進まず、離脱してしまう。

 本が好きで読書はするのだが、読むのが遅い上に読み切らない本が多く、そのくせ読みたい本ばかりが増えていく。だから、本棚に並ぶ冊数の割に、読了した本が少ない。

「本は腐らないから」
 と言って母は、本だけは好きなものを買わせてくれていた。だから、新しい本との出会いの間口は広かったのだと思う。ただ、その中でも何度も読み返し、いつまでも内容を覚えていられている「親友」のような本は数少ない。

 「速読家」はパリピだ。ウェイ系だ。写真のフレームに収まりきらない人数が集うパーティーに足繁く通い、誰とでも友達、ズッ友になれるタイプの読書好きだ。そのコミュ力を羨ましく思う瞬間はある。

 「遅読家」の私が同じパーティー会場へ放り込まれるのを想像した。がやがやと触れたこともないような本がひしめき合う中、手垢に塗れるほど読んだ「葡萄が目にしみる」を探し出し、フロアの隅で膝を曲げて小さくなりながら最初のページを捲るだろう。

 読書のディスコで踊り狂う夜は、遠い。

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