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法学部

 僕は元来政治学や政治哲学を学びたいと志していたから、法学部に入って法学やら国際関係法学(条約やら国連の類)を学ぶということには、拒否感こそなけれども特に望んでいたわけでもなかった。じゃあなぜ上智の法学部を受けたかは、社会で定評のある上智を受かったからで、周りからよく見られるかなってのと、自分がより満足するという、かなり不純なものだった笑。
 受験自体は3日連続で続いて、上智のTEAP利用→ICU→上智共テ併用という日程だった。1日目はそこそこの、2日目は第一志望であり受かったという手応えを得て、最終日に突入した。「これを乗り切れば札幌に帰れる。」この希望だか疲れの念を抱きながら、いざ試験開始の合図とともに問題用紙をめくると、第一問に条約について論じた文章が目に飛び込んできた。これは点数取れるなと喜びながら読み始めた。
 するとなんということだろう。法学部の問題なのに、条約は事情変更の原則があり、多くの人のイメージにある国内法のような拘束力のあるものとは正反対の性質であると述べた文章を出してくることにたまげてしまった。問題文の出典を確認すると、ああ、やはりE.H.カーの『危機の20年』であった。他の大問を含め問題を全て時間を余らせながら解き終わった僕は、ページを『危機の20年』の大問に戻して、反芻し始めた。  
 E.H.カーは、我々が常に抱く政治的ユートピアニズムによる偽善や盲目を指摘し、リアリズムを持たらそうとこの本を書いた。当然条約は、皆が思っている不変性や厳格性などは初めから有しておらず、そもそも制作の段階から事情変更の原則を考慮して作られていたのだ。簡単に言うと、条約は国内法より、契約に近いのだ。
 ここで僕の頭に、時の権力によって都合よく作られる法律や条約といったものを専攻にすることは、どれほどリスキーなのかという疑問が生じた。専攻を取ってしまうと、数年間、下手したら大学院を含めて5年以上、その分野のことを集中的に学ぶのであり、価値観や思考は必然的に専攻分野に傾く。法律が社会の全部分など反映しておらず、権力者の統治の道具となっているのであれば、法律一辺倒だと程度の差はあれどもアイヒマンのような実行するだけの怪物となってしまうか、狭隘な視点からしかモノを見ることができなくなるのではないか。また条約・国際法からしかものを見えなくなることも、それらが不変でなく社会を全て反映してるわけでもないのであれば、社会や真理を理解することがやりづらくなってしまう。試験時間にこのように思い至り、法学はやめようと、法学部の試験中に決心してしまった。
 社会全体を俯瞰した視点から物事を考えるためには、社会を作った人間自体を理解する哲学や心理学をある程度理解するのが必須と考えられる。そして国際的事象や法律は、当然国内の政治や文化、人々の考え方を反映させたものであるから、政治学や地誌的な知識を理解することがマストと言える。国連というものに取り憑かれていたり、条約は神聖でこの世の全てなのだと考え条約集を買って満足している愚か者(大昔の自分)は論外としても、大学で法学や国際関係学をメジャーとするときは、他の学問領域を勉強しながらでないと、極めて薄っぺらい考え方となってしまうのだ。これを踏まえて法学をやることは素晴らしいし、法学に長けた者を社会は必要としているのだから、僕は他人が法学部に進学することに反対せず、その代わり法学以外も幅広く学べとアドバイスする。しかし自分としては、人間自身を理解する助けになる哲学や、国際的事象など多くのことの基となり、理論と実行の程よいバランスがあると思われる政治学を学ぶのが適していると考えた。こうして志望校と専攻を決めたのであった。
 この上智の法学部の問題で、国際政治や法学などある分野に固執することの危険性、専攻を基本としつつも幅広く学ぶ重要性を改めて実感した。

〜付け足し〜
 僕は最初国際政治から政治学に興味を持って行った者で、国際政治を学びたいという人の気持ちはよくわかるんだよね。条約を覚えようとする人や国連の関係を勉強したいという人と沢山出会ってきたけれども、それを専攻にして視野を凝り固めてしまうのは愚だなと思うんだよね。国際政治なんて複雑なものは、条約や国際法なんか齧るだけだ理解できる代物ではなく、歴史・政治学・文化・地理など様々な素養が必要。第一線で活躍する国際政治学者の多くは実は、大学で経済や歴史、中には理系科目など、他の分野を学び、幅広い視野を持ってる。国際政治もエントリーとしは良いかもしれないけど、本格的に学ぶならばそれだけに固執するのは良くないよなーと、エントリーとして利用した僕はそう思ってる。

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