時代の高さ

 オルテガの大衆の反逆という本を今読んでいる。本題は大衆化についてであるが、ここでは現代を理解し、テーマを補強するために用いられた、「時代の高さ」が興味深かったため、本文を咀嚼したのち、僕の歴史観を交えながら考えていきたい。そもそも本文の時代の高低というのが、客観的というよりは、自分の生を中心に考えたものであるという前提を踏まえておく。
 そもそも時代の高低のとらえ方は、同時代であっても文明毎、民族毎でばらばらである。清王朝が没落していくとき、辮髪姿の中国人にとっては時代が落ち込んでいくように見えた一方、自由主義を持ち込み、香港を奪い取れたイギリスにとっては、ますます国力と威信が強まり、時代はより高まっていった。当然世界は利害関係でつながっているため、勝者と敗者がおり、時代の高低が世界が同時に進むわけがない。当然、オルテガはヨーロッパについて考えたのであり、彼が出した例はヨーロッパでしか適用されない。しかしながら、時代の高低が存在することは疑いようのない事実である。その点から、ヨーロッパの例であっても考える意味は重い。
 オルテガは時代の高さのとらえ方を二つに分けている。まず現在が過去を超えていないと嘆く時代(ほとんどの時代に該当)を取り上げている。その時代では、過去の栄光時代にすがるのである。文章中では古代ギリシアやローマのような「黄金時代」などが取り上げられていた。付け加えるならば、中国の儒教思想においても、周の時代を理想視し、時代が進むごとに後退していくものだと信じていたのである。
 一方で、現在が最高の完成された形であると考える時代もあり、これが興味深く分析する必要があるとオルテガは述べた。帝国主義の時代ともいえる19世紀、産業革命という技術面や、フランス革命などの政治的変化により、大衆を含めた社会全体の生活水準が物質的にも精神的にも向上した。類を見ない繁栄によりオルテガは、当時の人々が「我々の時代こそが完成形なのだ」と思っていたという趣旨を述べている。愚かなことにも、過去に熱望されたことが達成され完成形へと成熟し、このまま維持されるべきなのだと考えたのだ。だからこそ近代という、よく考えれば自己中心的で傲慢でしかない概念を生み出し、歴史:過去のなされたことを上から目線で見たのである。つまり歴史を謙虚かつ客観視せず、あたかも現在の付属物として扱ったのである。しかしながら、成長が止まったということは、不安と閉塞感も訪れるのである。最高地点ということは、そこから転げ落ちることを危惧するのだ。定期テストで百点を取った時に、次回の考査が不安になるという例がわかりやすいだろう。しかし世界はテストではなく、満点など存在するはずがない。この危惧は、空虚だったのだ。そもそも同じように考えられた時代が古代ローマや大航海時代などにあったというだけでも、この時代の高さの見方がいかに無意味だったかわかるだろう。まるで家電の過去最高モデルが永遠に最高であると信じるぐらい愚かさで言えば変わらない(もちろん時代の高さと家電の性能など複雑さと難解さで言えば、砂粒と宇宙ほどの差があるが)。
 周知のとおり、第一次世界大戦でこの安定と繁栄の時代は崩れ去り、残ったのは、混乱と将来の不透明性である。オルテガは1930年代にこの作品を書いたのだから、彼の考察はこの時代を軸としている。彼は、皆が生きている時代が最高地点でないことを知ったため、前述した漠然な不安や閉塞感から解放され、可能性があふれていると考えた。1930年代の混乱に多くの者が絶望したが、細かいことを排除した歴史的現実:時代の高さが、人間が生物である以上、生の充足に限られるため、彼はむしろ人々の精神的充足は向上したとすら考えていたのである。
 生の充足とそれに伴う時代の高さが内部からしか判断ということは、やはり一人一人の質が肝なのだと考えているのだろう。これを踏まえたうえでオルテガは、大衆(階級でなく性質的なものとしてのくくり)という自らに責任を課さず惰性で生き、周りに合わせるだけの思考停止の存在になり下がった者たちのことを、「おのれ自身を常に優先させる生」と呼んでいるのだろう。いわゆる「密集(大衆のための大衆の社会を表現)」した大衆(群れた羊のイメージがわかりやすい?)には、過去のあらゆる時代が窮屈に見え(この大衆の出現が歴史上初だから?)、過去への尊敬や伝統・継続性を断ち切ってしまう。こうして人間は前時代の、以前の時代より優れているという感覚を引き継ぎつつも、時代の頂点でない:「自身より劣る時代」という事態に陥っていると結んでいる。

 ここからは、オルテガの考えを踏まえた、僕の考えを書いていきたい。この文章は今まで読んだ本の中でもかなり難解であり、そのなかでもこの「時代の高さ」は理解するのが大変な部分であった。さらにオルテガの考え方は、貴族主義的であり、現代にも続く民主主義という考え方の基礎となった自由や諸権利に疑問をもっていることからして、僕の考え方とは異なる。そのことが、読解をさらに困難にさせた。しかしながら、彼の洞察力は相当なものであり、主要な考え方は本質をついたものが多いように思える(だからこうして名著になっているわけだ)。
 基本的に21世紀に入っても、「前時代より優れていると考えながらも、自身より劣る時代」は続いているように思える。確かに高度経済成長やバブル経済など、昔のほうがよかったなと思う時代があるが、オルテガの言っているのは、よりスケールの大きな話に思える。これは産業革命にまでさかのぼれると考える。既存の共同体や伝統がエンクロージャーによってぶち壊され、根無し草となった民たちが都市へと流入し、労働者階級となった。このようにして、現代に続く都市(資本主義的な観点からの)と大衆の形成がなされた。彼らは団結し、権利を勝ち取ったが、オルテガが嘆くように、衆愚へと陥ることになった。詳細は省略するが、産業革命以降、資本主義経済が発展し、経済成長を前提とした社会が築き上げられた。成長ということは当然前時代より前進していることが求められる。オルテガが貴族主義を出してきていることと、この資本主義の発展は無関係とは思えない。なぜなら貴族は、資本主義以前の、土地を財産として持つ古代や中世の封建的な体制で繁栄したからである。おそらくオルテガは、伝統や歴史的連続性を無視することを嘆いた上で、貴族が持つその歴史性に惹かれたのかもしれない。その点資本家は財さえあれば誰でもなれる点から、「大衆」の一部ですらある。あくまでオルテガは「貴族」や「大衆」を政治的な階級として捉えたのではなく、自ら柱を持ち考え行動しているかを示すものとして、示したのである(当然階級としてのそれらと相関関係はあるだろうが)。後々述べられる通り、オルテガは真の保守なのである。保守は右翼のような軽々しい分類ではなく、歴史や伝統を大事にし、無責任な行為や短絡的な政策を咎めるものなのだ。
 我々が生きる21世紀に目を向けた時、オルテガが望む方向に世界は進んだとは言い難いだろう。それどころか悪化したとも言える。常々口にしていることだが、技術革新によるインターネットやスマートフォンの普及により、より無責任で思考停止した人が増え、より大衆という単体の肥大化、そして自律化が進んでいるように見える。読了に際して再度この記事を編集し、より「大衆の反逆」の内容に即した分析・思考・まとめにできればと思う。(仮完)

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