『What happened Miss Simone』をみて感じた公民権運動について
皆さんはNina Simoneというシンガーをご存知ですか?彼女はシャネルのNo.5のCMソングやメディアなどの露出も多かったアーティストです。現在NETFLIXで公開されているWhat happened Miss Simone(ニーナ・シモン〜魂の歌)では彼女自身や関わりの深かった人物へのインタビューや彼女が亡くなるまでに何があったのかについて描かれています。今回はその作品から彼女の偉業と人生を大きく変えた”公民権運動”と結びつけて書いていきたいと思います。
※この記事には個人の見解も含まれます
※この記事にはネタバレが含まれます
Nina Simoneの人物像
彼女は1933年の2月21日ノースカロライナ州のトライオンで誕生しました。3歳の時にピアノを初め、その頃から才能を発揮し、7才の頃のピアノのリサイタルの演奏が音楽講師のMuriel Mazzanovich(ムリエル・マザノービッチ)の目に留まりピアノを本格的に習うことになります。彼女の音楽のルーツはクラシックでバッハ、ショパン、ブラームスを習い、ニーナ自身も黒人初のクラシックピアニストを目指していました。そのためか彼女の楽曲は所々にクラシックの旋律を感じることができます。
高校を卒業後、ニューヨークのジュリアード音楽院で学び、その後カーティス音楽院の奨学金制度に応募しピアノの実技試験を受けました。しかし、その結果は不合格でした。その半年後彼女が黒人であったという理由から試験に落とされたというのを知らされます。
当時のアメリカ南部はジム・クロウ法(人種隔離)があり、黒人が一般の公共施設を使うことを禁じられていました。彼女が幼少期にいっていた学校の名前を見るとその事実を知ることができます。”Colored School"というのは”有色人種の学校”という意味があります。
そのほかにも南部は線路で白人の社会と黒人社会が別れていました。ニーナはピアノを習いに行く際線路を渡って通っており、そのことについてインタビューで「怖かった。先生のことも初めは怖かった。白人に会ったのは初めてで宇宙人のみたいだった。でも先生の白い髪や髪飾り、陽気な性格も好きだった」と述べています。黒人である彼女は身体的特徴を嘲笑った言葉や音楽活動への否定的な言葉を浴びせられたことも述べていますが、音楽院を不合格になるまでは問題としていなかったようです。
不合格になった彼女は資金が底をつきバーで歌うようになります。その頃のニーナのことを音楽ディレクターのAvram Schackman(アル・シャックマン)は「最初からニーナには影があった。その影はどんどん強くなった」と述べています。彼女はその後ジャズフェスなどのステージで多くの人を沸かすアーティストになりますがその影や不安というのは消えることはなかったようです。
このように彼女は幼少期に白人を恐れていたこと、差別により夢を絶たれたことを経験し、そのことにより不安と影を纏っていました。しかし、ある事件がきっかけに彼女は怒りを表現するようになります。それが公民権運動のきっかけにもなったバーミングハムのアラバマ教会爆破事件です。
公民権運動から生まれた曲『Mississippi Goddam』
公民権運動は彼女にとって重要なものでしたが、初めからその運動に興味があったわけではありません。むしろ、ホームページには彼女が抗議音楽に否定的であったと書いています。その彼女が公民権運動にのめり込ませたのが前章で述べたバーミングハムのアラバマ教会爆破事件と白人主義組織の人物によって殺害されたMedgar Evers(メドガー・エヴァース)の事件になります。その事件から生まれた曲がこの『Mississippi Gaddem』という曲で彼女は「この2つの事件でできたこの曲でもう後戻りはできない」と述べているとホームページに記載されています。
この曲について活動家でコメディアンのDick Gregory(ディック・グレゴリー)は「衝撃的だった。当時は黒人の男性ですら”クソッタレ"ということはなかった。しかし、彼女のような有名人が黒人の問題を語ってくれた。民衆は歓喜したよ。」とインタビューで述べています。ニーナの娘のLisa Simoneは「当時の彼女の原動力はこの時代のエネルギー、情熱と創造力であり、怒りこそが彼女の支えだった」と述べています。それを裏付けるのが1965年のアラバマ州で行われたセルマ大行進での演奏です。彼女は怒りに任せて歌ったことが原因で喉が潰れ、以前のような高音域が出せなくなります。
ニーナは以降もこの活動に精力的に力を入れ日記に”この価値のある活動をやっている限り、食事や睡眠は必要ない”と書いています。しかし、あまりのもメッセージが強すぎる楽曲のためレコード会社からは送ったレコードを送り返され、興行的に成功したものではありません。その後も彼女はそのメッセージ性を強めた楽曲を作り続けました。インタビューで彼女は「時代のおかげで自分自身に気づくことができた。それを表現するのが私の義務」と答えています。それは彼女のパフォーマンスにも現れます。活動を行うまでの彼女は自身のライブを”座って落ち着いて聞いてほしい”といっていました。しかし、その頃は自ら観客を煽り、椅子から立ち上がり体を躍動させるなどアグレッシブなものでした。その他にもMalcolm X(マルコム・X)やMartin Luther King, Jr.(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア キング牧師)との交流を深め公民権運動の知識を広めていきます。Backlash Bluesの作詞はアメリカの作家で黒人視点の人間像を書いていたLangston Hughes(ラングストン・ヒューズ)で基盤となったのはブロードウェイで演劇を上演した最初のアフリカ系アメリカ人の女性作家 Hansberry(ロレイ・ハンズベリー)の戯曲になります。
この曲は時代を代表する楽曲と紹介されています。しかし、一方で強すぎるメッセージ性の楽曲がキャリアに傷をつけることになります。Aretha Franklinなどのシンガーが人気番組に出演する中、自身は出演することができずにいました。その中でも「政治的発言をするのが自分の役目だ」だと述べています。しかし、彼女の公民権運動はキング牧師の殺害により失意の元幕を下ろすことになります。その後に出演したスイスのモントルー・ジャズフェスティバルではその失意が込められることになりました。
【筆者紹介】
土田 航(つちだ こう)
京都でベース講師をやっております。
Youtubeにて弾いてみた動画やレッスン動画掲載中
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