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2023/7/31

所属事務所 アクトレインクラブの代表であり、子どもの頃から今まで、ずっと身近でお世話になっていた横田房七さんが急逝してしまった。
持病やご年齢もあったとしても、それでもあまりにも急なことだった。

今のうちに記しておきたい横田さんとの思い出話やお礼が、僕なりにいくつも思い浮かんでくるので、ここに載せて、また自分でも何度も読み返したいと思う。

横田さんと知り合ったのは、僕が7〜8歳で映画「マヌケ先生」に出演した時だった。(監督は「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」で脚本を担当した内藤忠司さん、大林宣彦監督は総監督、そして撮影監督は現在公開中の「釜石ラーメン物語」を監督する今関あきよしさんだった!)

横田さんの肩書きとしては、当時から俳優事務所アクトレインクラブの社長なのだが、幼い頃の僕、というか割と最近まで、横田さんは本来どこの何をしている職業の方なのかよく分かっていなかった。大林映画や大林監督のイベントの現場へ行けばほぼ必ず会える、親戚のおじさんのような感覚だった。
元々きっと何かの仕事で大林監督に出会い、そこから数多の伝説の現場を経て、役割や職業の垣根を超えて、いつの間にか文字通り“大林ファミリー”と呼ばれるほどの人間ぐるみの付き合いになってゆく。
そういう存在の人は特に大林監督のまわりには何人もいらっしゃって、僕は現場に行けば必ず会える大林組の皆さんが大好きだったし、
毎回お会いするたび「拓郎大きくなったな、こんなに小さかったのに(と言いながら手のひらをほぼ犬猫ぐらいのサイズまで下におろす)」という、親戚大集合のようなお決まりの挨拶があって、僕はそのたび身長だけじゃない成長を見せられたらな、と思いながら臨ませてもらうのだった。
そして僕は、横田さんや大林監督のように、人に惚れ込んで、職業や垣根を超えて行動を共に出来るような関係は、幼ながらにとっても素敵でかっこいい事だと思っていたし、今ももちろん憧れている。(むしろ、所属の俳優さんに「監督の現場で横田さんは我々よりも大林監督のマネージャーみたいだ」とこぼされるほど)
そういう存在、関係の人は、きっと人生で一度も巡り会えずに終える人だっているだろうし、大林組は縁や人との歴史をとても大切にしながらそれを作品に昇華してしまうという伝統があった。

映画「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」で、馬場毱男役に進言してくれたのも横田さんだったそうだ。
当時、別キャストで進んでいた企画が様々な経緯で変わらざるを得なくなっていたところで、7年以上は大林映画に出演もしていなければ所属俳優でもなくフリーだった僕の名前を、ポロッと口に出してくれたらしい。「拓郎は?」と。(その話をする度、「あの時は余計な事言っちゃったな」とおどけて笑う横田さんの顔が思い浮かぶ)

その時の一種の責任のようなものを感じてなのか「ウチ(事務所)で預かる」と言って頂けたのは、何ヶ月にも及んだ撮影やアフレコが終わり、2020年の「海辺の〜」がいよいよ公開するという時期のことだった。
横田さんが誘ってくださって、入院していた大林監督のもとへお見舞いへ行くと、
桜も咲き始めるホワイトデーの日になぜか大粒の雪が降ってきて、監督、横田さん、僕の3人で「雪だ!」と病室の窓から眺めた日。(そう、大林監督のまわりではこういう事がよく起こる。人生や取り巻く世界そのものが映画のような人なのだった。)
そしてこれが結果的に我々が監督とお会いした最期の機会だった。
「あの日のこと、あの日の景色は忘れられない」と横田さんとも何度も思い返したし、今もこれからも忘れられない。

事務所に所属してからこの3年は、まさにすなわちコロナ禍の3年間で、挨拶に行こうにも会社に人はいない、やりとりは全てがスマホ、何もかも勝手が変わってしまった、とも仰っていた。

僕が横田さんと最期にお会いしたのは、先日まで出演していた舞台「韓国新人劇作家シリーズ」終演後のロビーだった。
僕の出演作「罠」の演出 吉村ゆうさんが、横田さんと旧知の仲というのもあり観劇しに来てもらっていた。
またコロナ禍では長らく無くなっていた終演後の面会も復活したおかげで、久しぶりに横田さんと事務所以外の場所でお会いし、僕がどちらもお世話になっていることを互いに直接紹介させてもらった。
吉村さんが僕のことを「コメフェスでのコヒツジズを観て声を掛けさせてもらいました。今度韓国にも連れて行きます。」と仰ると横田さんは「ありがとうございます」と応えてくださり、
そして「今回厚木くんはどうでしたか?」と吉村さんが聞くと、横田さんは「うん。ただ…」と仰って僕はすぐ「ただ!ただ何でしょう…?」と聞くと、横田さんは(何か本音を言おうとして恥ずかしがってしまったか、ここで言うことじゃないと思ったのか)すぐに別の話題に切り替えてしまった。

その日は面会時間が全員合わせて10分間という時間だったので僕は「今日はお越し頂きありがとうございました」と締め括り、久しぶりにお会いした横田さんが元気そうに帰って行かれたのを見て少しだけホッとしたのを覚えている。
翌日、僕は横田さんに「限られた時間であまり面会出来ずすみません。また近いうちに事務所にも伺わせていただきます!」とメールしていた。
要するに、まだ「ただ…」の続きが気になっていて、あわよくばメールの流れで聞けるか、もしくは事務所へ行けば、横田さんの感想の続きが忌憚なく聞けるぞ、と。

しかし横田さんは、それから3日もしないうちに亡くなってしまったらしい。
そんなことになるなんて、全く思いもよらなすぎて、実感なんて今もない。まだどこか呆気に取られている。
ただどうしてもお別れしないといけないのならば感謝だけはとにかくたくさん伝えなければ、と言う想いで手をあわせた。

横田さんは大林組のまわりの皆さんに「うちで拓郎を預かることになった、拓郎が芽が出るまでは、俺は頑張る」と仰ってくれていたらしい。
今の僕を見て「ヨシ、芽は出たな」と思ってくれていただろうか。
いや、最期に交わした言葉は「ただ…」なのである。

僕は遺されたこの言葉の続きに今後も自問自答してゆくことになるのか、
はたまた、いや横田さん、僕は誰が何と言おうとイケてますよ!安心してくださいと言い返すのか。

あの時事務所に所属もしてない身なのに「拓郎は?」と言ってくれたのだから、横田さんにもやっぱり僕は胸を張っていたい。


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