強迫的な自己肯定感を手放してあげると前に進みやすい。という話。

こんにちは。ポジティブで振り切った情熱家だと呼ばれることが増えた、神鳥朋子です。高校時代までの私を知っている旧友に思い切り笑われそうです。ポジティブかつネガティブな要素を孕んでいるのが自分だと思っています。

ちょっと前に「ポジハラ(ポジティブ・ハラスメント)」なる言い回しを聞いて驚いた記事を書きましたが、夢ハラ・ロジハラ・自己肯定感ハラ、世の中すべてがハラスメントの予備軍であることがこんなに周知されたのも、コロナで人との距離感をどうしたらいっかな~みたいな風潮を煽って儲ける何者かの功罪を、ちょっと思います。

私は人生の失敗をたくさん繰り返していて、会社リストラされたり降格されたり、転職して年収下がったり、自分のチームのメンバーに劇的に嫌われてることに気づかなかったり、プロジェクトから外されたり、病気になったり、引きこもったり、、、、数えればキリがない谷底の時間がありました。これから生きるこの先にもきっと、谷底はやってくるでしょう。

そのたびに、ああ自分はダメだなと自信を喪失し、世の中から自分の価値を何一つとして認められていない気持ちになり。

それって、自分のことをどれだけ過大評価していたか、ということに気づく機会だったりします。

自己肯定感ってね、1日の間でもフラットじゃないと思うし、昔と今と比べてどっちが高いか低いか、って考えても、うーん、どうなんだろうなぁ、高い時間帯もあれば低い時間帯もあるんじゃないかな?って私は思うんですよ。

これは自己肯定感という言葉に孕んでいる「自己肯定感は高いほど良い」みたいな風潮への批判です。いいんですよ自己肯定感が人より高かろうが低かろうが。あなたが幸せに潤っている瞬間生きていたら私はそれで御の字だと思うし、自己肯定感の高低で劣等感や優越感を認識させるような最近の風潮は、私はとても苦手です。だってさ、いいじゃんべつに、それだって人の個性だもんって思わない?

強迫的に「自己肯定感を高めなくては私は幸せを感じられない」と思うよりか、自己肯定感という概念を手放して自分が心地よく居られてるのがいいよね、それ以上でも以下でもなく。と私は思うんだけどな。

昔のほうが私は強かった、と思うことが多々あります。
昔のほうが私は賢かった、と思うことも多々あります。

だけど、今より昔の自分のほうが、生きるのがしんどかったなって思います。

だから、自己肯定感に囚われなくっていいよ。

という、そののかしをやっていきたいなと思った今日でした。

今日は文字だけ記事です。ブログの代わり。

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