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元気が出る「岡本太郎」


〜本当にツラかった時期〜

僕は以前小さな機械加工の工場を経営していました。

平成3年、長男が生まれて3ヶ月後の6月。

父が突然の他界。

その後を継いで会社の経営をすることになったのです。

あまりに急なことで父の死を悲しんでいる暇もありませんでした。

最初の頃こそまだバブルの余波があったので、仕事の量もそこそこあり経営は安定していましたが、不景気のあおりを食って次第に注文が減っていきました。

仕事が減ることはもちろん大変でしたが、僕の頭を最も悩ませたのが会社内の人間関係でした。

会社には父の弟が二人いて(僕の叔父ですね)、創業当初から父の両腕として父を支えてきてくれていました。

兄の方は優しくユーモアがあって父の急死後も僕の相談相手になってくれていました。

弟の方は研究熱心で加工技術は素晴らしいものがあり、彼の存在無くしては会社の発展はなかったと言っても良いでしょう。

9人兄弟の末っ子で、僕にとってはおじさんと言うより「良いお兄さん」という感じで子供の頃から大好きでした。

けれども父の死後その弟の方が、人が変わったように自分のことを全面に出すようになり、「俺がいなければこの会社は潰れるぞ。役員にして給料をもっとあげてくれ」などと言うようになりました。

それに対して兄の方は「今は一緒に孝志(僕ですを支えていかなきゃいけないんだから、そんなこと言うんじゃないよ。」と言ってくれました。

しかしその後も事あるごとに弟は自分の功績を上げて、会社が厳しい時でも無理な要求を繰り返しました。

父が亡くなって10年後、頼りにしていた兄の方も亡くなり、会社は僕と叔父の二人きりになりました。

会社の経営状態はますます悪くなり、銀行からの借入でなんとかつないでいる状況に陥っていました。

そんな時でも、叔父は会社や僕のことよりまず自分のことを言ってきて、給料の減額にも応じてくれませんでした。

元々僕は人にあまり強く物を言える方ではなかったので、叔父の言うことに強く反論できずに、次第にストレスが溜まり夜もあまり眠れなくなっていきました。

イライラすることが多くなりストレスによる過食で体重も増えていき頭も体も重い毎日が続きました。

会社の建物も東日本大地震の時に屋根が壊れていましたが、もはやそれを修理するお金はありません。

僕は緑内障という眼の視野が欠けてしまう病気を持っていて、その頃は眼科に行って検査をするたびに悪化している状態でした。

おまけに白内障まで患ってしまい、右目は手術をしました。

幸い手術は問題なく終わりましたが、仕事の図面や細かい物を見るときにやはり見えづらく大変でした。

このまま会社を続けていたら会社より先に自分の体が壊れてしまうんじゃないか?

もう限界だ。会社をたたもう。

次第にそんなことを考え始めました

しかし会社を廃業すると言っても、一体何をすればいいのか。

どれくらいの時間とエネルギーを使うのか。全く予想がつきません。

本当に自分にそんな大それたことができるのだろうか?

父が残した大切な会社を自分の代で終わらせてしまうことの申し訳なさもあり、なかなか決断ができずにモヤモヤとした毎日が過ぎていきました。

〜太郎さんとの出会い〜

そんな日々の中、一冊の本に出会いました

芸術家の岡本太郎さんの言葉を集めた『強く生きる言葉』です。

強烈な個性の持ち主で、生前は「奇人」とも呼ばれたの太郎さんの言葉の数々は僕の胸にストレートに深く突き刺さりました。
中でも僕が最も衝撃を受けたのが下の言葉です。

危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。

ほんとうはそっち進みたいんだ。

危険だから生きる意味があるんだ。


僕はそのページから目が離せなくなり、何度も何度もこの言葉を声に出して読みました。

そのうちに何故だか涙が出てきて声を出して泣きました。

悲しくて泣いたんじゃありません。

太郎さんが僕の方をポンっと叩いて、

「大丈夫だよ。思い切ってそっちに行ってごらん。」

と言ってくれている気がして、嬉しくて涙が出てきたのです。

会社を廃業するということは本当に大変なことです。
ものすごくエネルギーも使います。

銀行にはまだ借入の返済が残っています。
廃業した後の土地や建物の処分もしなければなりません。

それに廃業することを叔父が素直に納得するとは思えません。

何より自分や家族の生活をどうするのか。
果たして自分にそんなリスクを背負えるのか。

そんなことを考えて決断できずにいましたが、太郎さんのこの言葉を見た時、自分に投げかけられているような気がして何故か心が軽くなったような気がしました。

危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。

ほんとうはそっち進みたいんだ。

危険だから生きる意味があるんだ。


そうだ、オレは本当は会社なんかやめてしまいたいんだ。
それがオレが進むべき道なんだ。

大変だけどやってやろうじゃないか。

心の奥底に眠っていた気持ちが湧き出てきて体に力がみなぎっていくような感覚でした。

それからの僕は迷いもなく会社廃業に向かって突き進んでいきました。

銀行からの借入の返済。土地や建物、機械などの処分。得意先への説明。

やるべき事は山積みでしたが、もう立ち止まったり後戻りしたりしません。

時には終わりの見えない業務の多さにめげそうになることもありましたが、その度に太郎さんの言葉を思い出して自分を奮い立たせました。

会社廃業を決断してから半年後、遂にその手続きが全て終わり、父の代から約50年続いた小さな町工場は役目を終え幕を閉じました。

建物が取り壊され更地になった工場跡を見て少しだけ感傷的になりましたが、僕の気持ちは晴れ晴れとしていました。

半年間本当に大変でしたが、ようやくゴールに辿り着いて胸の中は充実感で満たされていました。

先のことはまだ何も決まっていませんでしたが、
「こんなオレでも会社の廃業なんて大変なことをやり切ったじゃないか。この先何があったって命を取られるわけじゃなし、なんとなるさ。」
と思えて不安よりもワクワクとした気持ちだったのを覚えています。

その後の僕は介護の資格を取り、特別養護老人ホームで介護ヘルパーとして4年働き、今では高齢者向けの弁当の配達をしています。

決して楽な仕事ではありませんが、配達先のおじいちゃんやおばあちゃんとの何気ない会話が楽しく、毎日が充実しています。

もしあの時太郎さんの言葉に出会わなかったら、今の自分はないかもしれません。

あのままずるずると悪い状況が続き、体も心もボロボロになっていたでしょう。

大事な決断を求められる人生の岐路に立った時、人は誰もが迷い、ためらい、思い悩みます。

また人は歳をとればとるほど、リスクを恐れ、安易に保守的に生きようとしがちです。

それまでに築き上げてきたものを失うかもしれない、という恐怖もあるでしょう。

失敗してみじめな思いをしたくない、という気持ちもあるかもしれません。

「そんな大それたことをして、失敗したらどうするのか」と他人から後ろ指を刺されるかもしれません。

僕の場合もそうでした。

でも今振り返って考えてみると、あの時のプレッシャーや孤独感を乗り越えて、初めて新しい道が目の前に見えてきたんだと思います。

「危険で先が見えない道」は誰にだって怖いに決まっています。

それでも逃げたい自分と向き合って、「危険」に賭ける。

他人にどう見られるとか、大変そうだからとかではなく、自分の心の声に素直に耳を傾け行きたい方に歩いてみる。

それが結果的に人生に輝きを与えてくれるのではないでしょうか。

『強く生きる言葉』の中にもう一つこんな言葉があります。

駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。

そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずからひらけてくる。

決意するのだ。

よし、駄目になってやろう。

そうすると、もりもりっと力がわいてくる。


人生の中で大きな決断を迫られるの時は必ずやって来ます。

そんな時にいい格好をしないで、ジタバタとあがいて、泥だらけになってもいいんじゃないかな。

泥だらけになったからこそ、うまく行った時の達成感や充実感、学びへの期待、そして「やってやろうじゃないか」という未来へのワクワク感があるのではないでしょうか。

確かに失敗することもあるでしょう。

でも失敗したら、その失敗を貴重な経験として別の方法でチャレンジすればいいんですよね。

だって命がある限り何度でもやり直せるのですから。

皆さんも壁にぶち当たったり思い悩んだりした時に、岡本太郎さんの言葉を思い出してみてください。

岡本太郎さんの言葉は、元気が出ます。


最後まで読んでくれてありがとうございます。


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