増大する欲求と日々の発見


  学校の先生をしています。

 最近、再び(?)「何者かになりたい(平たく言うと、有名になりたい)」という欲求が自分の中で強くなっているのをなんとなく感じる。小説や詩を書いたり、エッセイを投稿してみたりする中で、「これがいつか本になったらいいな」ということを漠然と考えた1年間だった。当然、何か表現物を作ったら、それがより多くの人に愛されるようになってほしいというのは、作者として割と自然な欲求ではあると思う。しかし、それが強すぎたり、そうした観念に縛られるのも考えものである。
 そんな今考えたいのは、「有名になりたい」という欲求は、有名になることで落ち着くのだろうか、ということである。「有名になる」ということ自体が、この欲求の本質なのだろうか?
 応えは「否」と、想像してみれば結構簡単にわかる。結局、有名になったところで、さらに違う欲が湧いてくる。「次はこうしたい、その次は…」と、欲求が変質していくだけで、なくなることはない(むしろ増大するかもしれない)のであろうと思う。有名になれれば、何者かになれれば、人生の幸せに直結するかというとそうでもなく、有名になることで新たな悩みに直面することだってあるだろう。
 そうしたことを最近ずっと考えている。有名になれればこの気持ちが収まるだとか、そんな次元の話ではないのだろうな、と、頭で少し理解し始めている。

 では、どうすればよいか。この欲求とどう付き合うか。気持ちをなくす方向の努力をするのではなく、向き合い方を変える必要があるのだと考える。当たり前のことだが、「有名になりたい」の奥底には、「幸せになりたい」という気持ちがある。ということを、今一度思い出してみる。
 別に、有名にならなくても、社会的に影響力がなくても、幸せはどんな風にも見つけられるし、作れる。最近知った幸せは、好きなミュージシャンがやっているラジオで、自分の投稿を読んでもらうこと。自分の言葉を読んでもらえることがこんなに嬉しいとは、思っていなかった。他にも、小さくて暖かいライブハウスで、好きなミュージシャンのイベントに参加するとか。日ごろ大きな会場で演奏している人が、小さなイベントをやる、というのは今日日結構あるようだ。ここ近年で、表現の在り方が自由になったということなのだと思う。
 SNS上で、尊敬できるクリエイターを探して、返信を飛ばし合ったりすることだってできる。表現者同士、どんどん繋がる。直接会ったことのない人から、「スキ」とかリプライとかをやりとりする。それも、大いなる「小さな幸せ」だと思う。それらが、今の自分を生かしている。
 日々の仕事の中にも幸せを見つける。創作をしている生徒の話を聞いて、そのお返しに自分の小説を渡して、感想を言い合う。大事なことを打ち明けてくれたお礼に、代々伝わる家宝を倉庫から出してくるように、自分の小説を渡す。それで、お互いに良く作ったな、と讃え合うのである。そういう創作の在り方も、とても幸せだ。
 何者かになりたい欲求は尽きることがないが、小さいかもしれないけど今享受している幸せをきちんと認識する。未来にあるかもしれない大きく見える想像の幸せより、目の前にある幸せの方が確実なのである。まずはそれを認識して、毎日を上手く乗りこなす。

 その上で、尽きることのない欲求も、それなりに大切にしようと思う。欲求を暴走させないよう気を付けつつ、自分の創作物が多くの人に読まれる努力をする。そうした行動は悪いことではないだろう。「モチベーションがなくても行動する」という状態が、結構大事なのではないか。そんな状態で動き続けると、意外と話が進んでいったりする。
 「やる気」とか「情熱」とか「意味」という言葉がもてはやされる中で、それに飲み込まれない振る舞いをしたいと思うのである。

 今年の初めに、「2019年は本を作る」という目標を立てた。残り2週間ちょっと、見通しは今のところ全くないが、どっしりと進めたい。

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