強烈な具体は普遍の扉を叩く

学校の先生をしています。

授業で。
古い言葉で書かれた文章を説明する時にはよく、「たとえ話」をする。

「例えば、今だと“気になる人”にメッセージ送ったりするわけだよね?それで返事がなかったりすると、仲間内でそれを話に出したりして。それが、和歌の贈答のマナーとちょっと似てるよね。ほら、だって気になる人のアカウントとか、“垣間見”するんでしょう?」

今考えたので色んな意味で物議を醸しそうだが・・・笑、伝えたい内容を、現代の具体的感覚を交えて説明する。古文世界の常識を理解するため、「たとえ話」をそのきっかけに使うことが多い。
教室の外でも、抽象的概念を具体的事例に照らし合わせて説明したり、具体的現象から一般化できる事柄を抽出し、他の現象の理解に利用したりする。このように、私たちは、普段から「具体と抽象」を行ったり来たりしている。

ここから本題。小説などの文芸も、同じ仕組みで成り立っているのではないかと考えている。
小説には、そこに登場する人物にしか体験できないことが書かれている。その登場人物の体験自体は、架空でありながら非常に具体的であって、読者をはじめとする他の人間が真似できないようなものでもある。しかし、その中に、妙なリアリティをもって迫ってくる部分があり、そして、惹きつけるのである。その時、読者は、文章から何かを読み取っている。「具体的体験」から「普遍的なもの」を受け取っている。
文章から、任意の場面・表現・言葉を抜き出し、自分の感覚と重ね合わせたり、更新させたりして、現実の認知や、行動を変化させていく。それが、文芸の仕事なのではないかと思うのである(また、任意の文章から読み取れる普遍的な事象を言語化したり先鋭化したりするのが、文学評論家の仕事である、とも思う)。

詩や俳句も、小説と似たような役割を持っていると考える。もちろん、小説とは違ったアプローチで。
俳句(特に「お~いお茶」の“新俳句”と呼ばれるもの)や詩は、使われる言葉と言葉との関係性が、普段生活の中で使われるそれとは随分違う。散文ではないような言葉同士のつながりが現れ、詩には詩の、短歌には短歌の、俳句には俳句の、独特の言語世界が広がっている。そこには、作者独自の皮膚感覚が表現され、読者(受容者?)は、その感覚がどのようなものか、感じてみたり、考えてみたりする。
作者は、その言葉の並びでしか説明できない感覚を持っているから、あえて説明を加えないことがほとんど。読者の側は、作者の意図を100%言語化するのは不可能ではあるのだが、書かれている内容を頼りに、なんとか別の言葉に置き換えようとする。その中で、読者は、自分の中の新しい感覚に気づいたり、言語に対する向き合い方を変えようとするのである。
作者の強烈な具体的感覚を、なんとか一般化しようとする中で、収穫がある、というのは、とても面白いことだ。授業を作る中でも、そうしたことを押しつけがましくなく(これがとても難しい)伝えられるよう、日々思索するのである。

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