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糸魚川大火から7年 ━ あの日、あの町で起きたこと(前編)

[寄稿]Pen name: 藤倉かずま-高2, 実務長
今回から、地域振興研究会の「定例会」で発表した内容を要約し、公式noteでお届けすることになりました。今後は定期的に投稿ができればと考えています。
※ヘッダー画像は糸魚川市ホームページからの引用です

1. はじめに

今月、新潟県糸魚川市で夜間に気温が急上昇し、12月としては初めての夏日となる、26℃の最高気温を観測したことが話題となりました。web上に上がっている当時の気温の実況(12月15日19時 アメダスによる測定値)をみてみると、糸魚川市が25.2℃という驚異的な数値を叩き出しているのに対し、直線距離で30km少々しか離れていない上越市高田の気温は9.6℃と、15℃以上の開きが生じています。

フェーン現象に伴う気温の上昇幅にこれほどの開きがあるのは、地域の地形的要因によって、フェーン現象の受けやすさに大きな差があるからだといいます。この話を聞いて思い出したのが、昨年の夏に糸魚川の方に伺った、糸魚川大火の時のお話でした。
1軒の中華屋の火の不始末が大規模な火災に発展し、昔ながらの雁木の町並みを焼き尽くした糸魚川の大火。本日12月22日で、発災からちょうど7年を迎えます。現地で伺った話を参考にしながら、大火当時の状況と、復興に向けた街づくりの様子をみてみましょう。

2. 大火を起こしたのは風だった

糸魚川は、糸魚川―静岡構造線という大きな断層線が通る町で、日本海から小谷や白馬、そして松本方面に向かって、一直線に割れるようにして谷が伸びています。そのため、海から山・山から海への風が谷に向かって集まり、谷の出口にあたる糸魚川市は、普段から強い風の吹く土地として知られてきました。
特に山から吹く風は、先日のようなフェーン現象により、温度が高くなりがちです。この生温かい南よりの突風は、地元で「蓮華おろし」と呼ばれ、地域の方の意識に根ざしてきました。

地理院地図をもとに作成した、糸魚川市の大まかな地形

2016年12月22日。この日は山側から台風並みの強風が吹き、27m/sの最大瞬間風速を観測したほか、フェーン現象により、12月にも関わらず気温は季節外れの18℃に達していました。「今日は嫌な風だから火の元に気を付けよう」といった会話が、実際に地元の方の間で交わされていたといいます。

当時の風の様子。糸魚川市ホームページより

午前10時20分頃、旧市街地にあった中華料理店のコンロの消し忘れが原因で出火。折からの強風に煽られて「飛び火」が発生し、火勢は一気に拡大します。この飛び火というのは、火の粉が舞うような生易しいものではありません。火の点いた木片が風に飛ばされると、巨大な火の塊となったまま屋根をすり抜け、焼夷弾の要領で天井裏を燃やし始めます。この飛び火によって、火から離れていながら突然燃え始める建物が続出し、同時多発的に火の手が上がったのです。

3. 古い町並みが広げた被害

風の強い糸魚川は、過去何度も大火に見舞われ、都度「火災前と同じ形で」復興してきた経緯があります。旧市街地にあたる駅北側のエリアでは、前回の大火(1933年)の後に建てられた木造家屋が密集し、美しい雁木通りが形成されていた一方、一度火災になれば大惨事につながりかねない構造になっていました。

本町通りを焼く炎(糸魚川市ホームページより)

今回の大火の場合、火元の裏手は路地が狭く、消防車が入れなかった上に、防火用水を裏山から引いてきていたために消火が追い付かなかったことが、火災の拡大の原因となりました。勢いを増した火には水を当てることすらできない状態となり、風が収まるか海まで燃え尽きるのを待つほかに取れる手段がありませんでした。伝統的な町並みを維持しながら、同時に災害に強い都市を作ることの難しさが、この事例だけでも十分に伝わるかと思います。
火は30時間にわたって燃え続け、面積にして約40,000㎡を焼き尽くし、全焼した家屋は120棟に上りました。

糸魚川の市街地(人口集中地区,H27=赤部分)に対する消失地域

消失面積だけでみれば東京ドーム(46,755㎡)よりも狭く、糸魚川の市街地全体と比べてもさほど広くはないため、一般的な大火のイメージに反して「意外に狭い」ような印象を受けてしまいますが、町の顔だった旧市街の中心部が焼け野原と化したことで、地域が大きなダメージを受けたことは想像に難くありません。古い酒蔵や割烹なども焼け、経済損失として計れる被害だけで30億円分に達したといいます。
一方、火元の風上側にあった家々は、例の中華屋の隣の建物すら焼け残ったといい、強風による被害の特異性を象徴しています(途中で風向きが変わっていれば、岩内大火のようにさらに大きな被害が出ていたかもしれません)。また、糸魚川の名物「牧野飴」の店をはじめ、歴史ある雁木通りもいくらかは焼失を免れ、現在も街角にその名残をとどめています。

焼失を免れた一角(筆者撮影)

このようにして、様々な悪条件が重なり大きな被害を受けた糸魚川の町は、国庫による補助も受けながら、再建・復興の道をめざすことになります。糸魚川の復興に関する詳しい話や、将来に向けた地域づくりの課題については、後編として年明けに公開する予定です。

※参考資料等は後編の最後にまとめて掲載します


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