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自殺を止めるもの

まず、自殺を遂行できてしまう状況について。

  • 孤独、(実態としての孤独、精神的孤独感)

  • 希死念慮(恒常的に続く死にたい、消えたい、苦しみを終わらせたいという気持ち)

  • 自殺衝動(実行する圧倒的な衝動、希死念慮の大きな波、不運の重なり、睡眠不足や薬物による意識の麻痺)

自殺を止めるもの

  • 死の恐怖

  • 愛する者を悲しませたくないという気持ち

  • そばに誰かいること

  • (戦争、災害、飢餓)


僕が何度か企てた中で、最も近かった時は遂行する条件が揃っていました。
そこで迷いを生んだのは本能的な死の恐怖に対する対策ができていなかったこと、自傷や未遂などによって飛び込むことへの麻痺が形成できていなかったこと。
大切な人を悲しませたくないという気持ちを超えた所にあります、脳のより深部に到達する神経回路まで納得させる、あるいは麻痺させる必要がありました。

僕はお酒に酔うことがほとんど出来ません。酔う前に動けなくなってしまいます。僕にお酒という後押しがあったら、きっと遂行できていたという本当の未遂は一度だけです。

ベンゾジアゼピン受容体作動薬、通称ベンゾ。
ハルシオンという強い薬のストックが何故か大量にあった家で、僕は12才で不眠になって6日目でそれを飲み始め10年以上経ちました。当時と同じ効き目を得るには、当時の8倍の量を飲まなければならなくなりました。
もし、その時飲み始めなければ、もっと光ある人生を送れたかも知れないし、しかし10代の逆境は薬とは無関係にあったのでむしろ薬が救いだったかも知れない。
発狂して夜中の道路を走り回ったり、イヤホンをして道路の真ん中に寝転がったりしていたのを、その前に薬を飲めば大人しく床に着くことが出来ました。
たらればは分かりませんが、ベンゾが心を安定させるほど、シラフは不安定になりました。

しかし、親の死や失恋で希死念慮が増大して何日も眠れない時、ベンゾをオーバードーズする事で平静を取り戻したこともあります。
これさえ飲めば楽になれる、その安心感は絶対的で、その効き目も絶対的です。胸の辺りの苦しくて本当に耐えられない時でもベンゾを飲めばホワンと楽になる。
お酒には酔えませんが、お酒と一緒に飲むと代謝が遅れて効果が倍増します。
酷い時は当時合法だった野菜類似物質とベンゾと咳止めをODしてクラブで暴れたりしていました。

そのツケは今も自分を苦しめているし、しかしその手段がなかったとしたら今自分がどうなっているか、分かりません。

X (当時Twitter )で、ベンゾのせいで死ぬほど苦しんでるけどベンゾがなかったら文字通り死んでたと思う体験がある人」みたいなツイートをした時、一瞬で数百いいねと体験談リプが集まったことがあります。(脳汁出たよね)
日本はベンゾ大国です。

僕の周りの同年代の人の話を聞くと、お酒を飲まないと寝れないという人が3人に1人はいます。
お酒も実は、一部ベンゾと同じ働きをします。他にも色々作用するので、ベンゾより危険だとも言われているし、依存症の底はベンゾより深みまで行きます(ベンゾの場合過剰摂取の離脱症状でてんかんやショック死などがあり得る為なんとも言えませんが)、逆にお酒に強い人は一飲みできるベンゾODの様な状態まで行くには相当のアルコールを飲まなければならないため、アルコール依存症になる前に人生逃げ切れる人がほとんどだとも言われています。

家族、友達、恋人、仕事仲間、全ての人間関係も、お酒も、薬も、セックスも、コンテンツも、運動も、あらゆることが自殺を止めるものになり得ます。

しかし、不運が重なるとそれらが次第に意味を待たなくなって行き、死という道しか見えなくなります。

あのどうしようもない感じは形容し難くて、暗闇で見えない何かに痛ぶられ続けてもう光か闇しか感知できない、胸は爆けそうに苦しくて、身体も痛くて、唯一微かに光が見える、決して明るくない、しかしそこに細道があって、もうそこしかない、逃げ込みたい、そんな感じです。

本当に大事なものって何?結局ひとだと思います。人間関係。だって考えてみてよ、何が悲しくてひとりぼっちになるのさ、寂しいよ。ずっとずっと。

家族、血の繋がった人間関係、昔からの友達、恋人、自分が大切に思える人、できれば会いに行く、でなければ声を聞く、死にたいじゃなく(重いのは困られます)、最近どう?と声をかけれるなら(大抵そんな気力はありません)それに越したことはありません。 
そしてそれに誰かしら何か返ってくるだけの人生を送ってこれなかったなら(あなたのせいではなく、単なる不運です)お金を払って話を聞いてもらう、病院に行く、自助グループに参加する、そういう能動的な行動が取れるなら、それが一番良いと思います。

人は人の中で生きている。
 
そういつ風に考えれる時に、身体が動くうちに、健康が残っているうちに、何かを楽しめるうちに、人と関わって、一緒に笑って、一緒に何かに興じて、一緒に泣いて、なんでも良いんです。そうして勝手に出来た人との縁、いつか足跡を辿ると、本当に軽い言葉でも心を救ってくれたりする。

ともすれば一点集中になりがちな愛着障害な人はあえて、必死に依存先を増やそうと努力する、動ける時にね。それでギリギリちょうど良いくらいだと思います。

支離滅裂だけど綺麗に生きれなくても生にしがみつきカオス化し壊れ醜くとも生き様な人生はこのテキストに表れもしている気する僕の個人的見解でさ。

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