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愛と憎しみと、智慧・・・

毎日朝起きると、香木を焚いて、部屋を燻らす。
もう習慣化してしまった朝の日課。
いつからだったけ?

浄めの香木のパロサントを焚きだしたのは、
ちょうど一年ほど前のことだった。
その効果が絶大だったので、習慣化したのだった。
キッカケはある音からだった。

・・・スル・スル・スル・・・

 ある朝早く、不思議な音がした。
 寝ていると、布がすれる音が聞こえる。布団が落ちてもおらず、服なども落ちていない。その音はヘビがスルスルと動いているような音だった。
 その日は、変だなぁ~、と思って、また寝た。
 次の日も同じような音が聞こえて、変だなぁ~、と思って目を覚ました。
 この時もなに布系のものが動いた形跡はなかった。

 二日も続いたので、伴侶にもこのことを相談した。
 「あの香木を焚いたから、洗い出しというか、好転反応みないものかも。」
 「よく考えたら、私の使っている夏用布団は『あの部屋』のものだった。それが音の原因かも。」
 あぁ、そうに違いない。と二人とも思った。
 香木はパロサントというものだった。

 ときどき、バキバキというラップ音が「ある部屋」で、聞こえる、と知り合いのヒーラーの方に相談したら、「これをどうぞ」と渡してもらったのだ。
 もらった日にさっそく焚いて、その翌日と翌々日に布がスルスルと蛇のように動いて擦れる音が聞こえたのだった。
 伴侶は、「あの部屋」にあった他のものと一緒に夏用布団も、早速捨てに行ってくれた。すると、変な音は聞こえなくなった。
 不思議だ。

 ものには、念が宿る、ということを実感した。
 「あの部屋」のものには、念が残っていたようだ。異音が聞こえるのは、珍しいケースだとは思うが、大なり小なり、このように、ものに念が宿ることはどこの家でも起こっていることかもしれない。
 使わなくなった「あの部屋」を私が自由に使い出して、一年くらいたってからのことだった。かつてあったものは随分と整理したのだが、まだまだいろいろと残っていた。
たまに、寝ていると、よく天井でバキバキ音がした。

 「この香木をつかうといい。なんか、カオナシのような、ヘビのような、生霊を感じる、ゾワッてしますわ。」と、香木を渡してもらったときに教えてもらった。

 なんでも、その香木は、南米にシャーマンになる修行をしに行ったある日本人に渡されたものらしい。その日本人は、現地のシャーマンを超えて、独自に香りの配合を作ったりできるようになったらしい。その方にもらった香木の片割れが残っていたので、それをくれたのだった。
 その香木を焚いたら、「あの部屋」はすがすがしい空気に変わっていった。

 物はエネルギーを奪っていくともいう。
 ものがあれば、あるほど、その場のエネルギーが奪われて、新しいエネルギーが入って来ないらしい。

 そういう意味でも「断捨離」は素晴らしい。
 和風づくりの家には「床の間」があった。
 新鮮な「神気」を取り入れるという意味があったのかもしれない。
 何もない空間に、西洋人は意義を見出さないが、そこに、良いエネルギーを循環させることが、古来よりの流れる日本人の智慧なのかもしれない。

 「香木をつかうときに、とどまっている存在に、もと居たところに帰ってください、とキッパリ言ってください。」
 香木を渡されたときに、そういうアドバイスもいただいた。
 実際、そう念じて、そう言った。

 生霊というのも永遠にどこかにとどまることはできないから、いつかは帰っていく。
 言われたとおりに使って、もらった分のパロサントがなくなってしまったので、アマゾンで取り寄せた。ついでに、どういうものか調べてみた。
・・・
 スペイン語で「聖なる木」と言われる南米産の神秘の香木「パロサント(Palo Santo)」。 主な産地は、南アメリカと中央アメリカの一部の地域。 希少性が高く、 濃厚な香りを放ちながら空間を浄化し、 幸福を呼び込む香木として今話題の浄化アイテムです。
・・・
 とあるネット情報にはそう記してあった。
 追加で買って、かなり徹底的にそのパロサントで家全体を清めた。たぶん、生霊さんも帰っていったと思う。

 「あの部屋」をかつて使っていた人がいなくなって、自分の趣味用に使い出したのだが、そこには、関連する生霊が残っていたようだ。詳しい話はできないが、かつてのあった愛情が憎しみに変ったらしい。あるいは、その愛情は、もともと純粋なものでなく、執着的、呪詛的な力があったのかもしれない。

 愛といっても、いろいろなバリエーションがある。キリストのようなハイレベルな無償の愛から、エゴの執着に基づいた偏愛もある。すべて「愛」で表現される。

 愛と憎しみどちらに吸引力があるかというと、実は憎しみかもしれない。だから、表面的には愛の姿で、結びついた縁が、いつしか憎しみに変ることはよくある。それは、「愛の姿をした憎しみ」だったのかもしれない。

 いつまでも、憎むことと、いつまでも愛すること、
 どちらが長く続くと思う?

 たぶん、聖人でないかぎり、いつまでも愛することより、いつまでも憎むことの方が簡単にできるのではないだろうか。それが、普通の人間だと思う。

 だから、生まれ変わっても忘れない「憎しみ」が縁を結びつけることがある。それが、「愛の姿をした憎しみ」だ。

 これは男女関係だけでなく、友好関係にもある。親子関係にもそういうのがある。毒親の元に生まれる因果もその関係かもしれない。
 そうして、生じてしまった縁は、いったん、経験するしかない。
 そのとき、「ホンモノの愛」が試さる、と思う。

 潜在的なあった憎しみを純粋な愛で昇華できたら、それはキリストが奇跡を行ったに等しい行為だと思う。なかなかできないことだと思う。
 でも、耐え忍んで、切り抜けることはできると思う。それもなかなか難しいことだと思うが、そうして耐えた場合、ある臨界点がくると、不思議な別れがやってくる。思いもしなかった力で、別れがくるときがある。
 それは、宿業としてカルマが消えた瞬間だ。相手側に、執着や憎しみが残っていたとしても、自分の中にそれがなければ、自分の宿業の一つ、つまり過去世からの自分の宿題が一つ消えた瞬間である。それは実に不思議な別れ方をする。

 そうして、別れたとしても、まだ生霊が残る可能性はある・・・生霊に耐えることも宿業とも言えるが、少なくとも、自分は生霊にならないようにしたいものだ。

 そういえば、何十年も前に、帰ってきた生霊さん?のイメージが浮かんだことがあった。
 随分と昔のある時、かつてDV(家庭内暴力)を受けていた方と話あったことがある。
 もうその方は離婚されていたが、何故かものごとがいろいろとうまくいかないので、少し相談にのっていた。
 すると、なぜかふと、般若のお面のイメージが浮かんだ。しかもその般若の正体はその相談者だということも同時に閃いた。

 相談者がしきりに前のDV伴侶の話をしていた。
 私は自然と口をついて、こう言ってしまった。
 「たしかに、理不尽な暴力を受けたことは納得できないでしょう。相手が悪いに決まっている。でも、もう別れたんでしょう。そうやって、憎んでいても相手はもういない。その念は相手にも行くとは思いますが、結局は自分に帰ってきますよ。般若のお面のような姿となって・・・」

 相談者には思うところがあったようで、ハッとなって、すんなりと話が腑に落ちたみたいだった。

 生霊って、本人とは別の存在でありながら、結局元の居場所にいつかは戻って、その本人に悪い影響を与え続けるみたいだ。
 相手が100%悪くて、怒るのは当然と言えば、当然というケースもあるとは思うが、物事の決着がついた後も、蒸し返して、相手を憎むと、負のスパイラルでエネルギーが形成されてしまって、生霊も前にも増して強くなったりする。

 生霊も結局、もと居たところに帰るしかない。

 「人を恨まば、穴二つ」という。相手の穴と自分の穴という意味だと思うが、生霊が返ってきたときに、その生霊のカルマも背負うので、自分の穴は、呪った相手の穴より、ずっと深くなっていると思う。

 ちなみに、呪うって言葉は、昔、祝う、と同じ意味だったという。
 つまり、人の性(さが)がその意味を変えてしまったのだ。
 同じような例は、他の言語にもある。
 英語でresentment の今の意味は、「憤り」、なんだけど、昔は「感謝」っていう意味だったらしい。
 言語的に分解すると、re(繰り返す)+sentiment(感情)っていう意味だから、なんの感情でもいいはずなんだけど、時代がその感情を「憤り」にしてしまった。
 同じ語源のフランス語のルサンチマン(ressentiment)も「怨念、憎悪」とかいう意味にしてしまったのは、人類の集合意識の責任である。
 そうだ!繰り返す憎しみの感情が、般若のお面のような生霊を生み出すのだから、「感謝」とか「慈しみ」とか「喜び」を繰り返したら、周りに精霊や神々が現れてくるのかもしれない。

 愛を持って、悪縁を断つのは難しいかもしれないが、少なくとも「憎しみを憎しみで倍に返す」ことはせず、耐えて別れた場合、そこには何らかの「学び」があると思う。

それは正しい愛の学びだったと思う。
 愛が学びに変ったのだから。

 学びは熟成されると、智慧になる。

 愛の反対側に智慧があり、
 智慧の反対側に愛がある。
 それが魂の進化の道だと思う。

 なかなか難しいけど、少なくとも愛が憎しみに変ってなければ、恨み=ルサンチマン(ressentiment)の永劫回帰の輪っかから抜け出せている。
 いや、愛が憎しみ変わったとしても、いつしか学びがやってきて、それが熟成されて、智慧に変るのだろう。何度か生まれ変わって・・・それが魂の進化の醍醐味なのかもしれない。


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