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記憶と堆積と

長い文章を書こうと画面に向き合うのはいつ振りだろう。
Instagramでは毎年末あたりにダラダラと文章を書くわけだが、最近はそれも億劫になってきて、さっさと終わらせてしまっている気がする。

文章を書くのが嫌いなわけではない。ただ、こうして文章と向き合う時間を作ると、どうしても書いているときの時間の経過ばかりが気になってしまい、その費やした時間に果たして見合う文章なのだろうかと、もはや資本主義に飼い慣らされたつまらない思考回路で自問自答を繰り返し、挙句その物差しで測ってしまうからこそ辿り着くのは当然自己嫌悪または虚無なんかであることがわかってしまっているから、なかなか手が伸びないだけある。そもそもSNSなんて一歩引いて見れば、突如何者かが社会に創り出した底の見えない穴に向けて、それぞれが一生懸命作った何やらを無表情に嬉々として放り込んでいく奇妙な作業なわけで、その穴というものを自己の中で正当化して咀嚼できない限りは、すべて虚無の域を超えないはずなのである。

と、私はこのようなだらだらと屈折した文章を書くのが好きなわけだ。こんなものに時間を使って何になる、と思うのも当然と言えば当然であるが、この屈折した行為がある種私の好きなことの一つなわけで、この『好き』と向き合い愛でていくのも、また自分と仲良くなる1つの方法なのではないかと思い言語化するに至った(元々仲が悪いわけではないが、時々自分を冷ややかな目で見ることはあるので、文章を通して自身との対話を重ねていくことが1つ重要なことなのではないかと思い至った次第である)。そしてもう1つの角度から言うと、私がその時々に思ったことをどこかに残していきたいと思ったのがこの形で文章を残す理由だ。

というのも、この歳になり何かを残すことは素晴らしいことだと思える機会が増えてきた。というより、昔は何かを残すということ自体に全くもって意味を感じていなかった、というのが正しい。それはその瞬間瞬間に対して、残すことのできない刹那的なものだからこそ意義のあるものであると感じていたためである。今でもその根本の考えには変わりないが、やはり歳をとるに連れ、振り返られる『過去』の占める割合が人生の時間軸において増してきたため、必然的にそれらを振り返る機会が増え、それにより過去を振り返るという行為の意味合いも共に増してきた、というのが理由の1つであろう。ただそれを抜きにしても、よく考えればそれもそのはずで、昔はそのそれぞれの瞬間がそもそも楽しく、それが深く考えずとも必然的であったから、過去を振り返る必要性がもとより無かったのだ。それに対し、今は悲しいことに日々の大半を『つつがなくこなすための作業』が占めており、相対的に『いい思い出としての過去』の比重が大きくなっているため、何か意味のある瞬間を残していきたいと思うのはごく自然なことなのである(この文章で言語化して整理することにより、そうであるという結論に至っている)。

そんなわけで、何かを残すことにより得られるものや、素晴らしいと感じる機会が増えてきたわけだ。話を戻すと、ありがたいことにここ最近は自分のバンドの音源リリースやライブだけでなく、MVやLVなどの映像、自分のバンド以外のサポート活動などにおけるアウトプットの機会、個人的な趣味の写真などを出す機会が増えてきた。それらを実際に形に残してみると、後々それを聴き返したとき・見返したときに、このときこういうこと考えてたな、ここをこうしたかったんだよな、これがいいと思ったんだよな、という、当時の自分の思考を昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。こういう機会を増やせていることが特に素晴らしくも愉しく嬉しいわけだ。

それはつまり、自分が作ったものだけでなく他の人が作ったものも同じで、生み出されたそれぞれに意図や理由があり、背景がある。その中には、それを作った時の作者のイメージや、当時やりたかったことなどが包含されている。実際に自分であれこれやってみると、そのあたりの視点が驚くほどに広がるので、そこに愉しさを感じているところなのである。

それから、背景というのは、作り手だけのものではなく、受け手の方にも自然と生まれている。誰かの作った音楽を聴きながら道を歩いたときでも、「それを聴きながら私が道を歩いていた」ということがその音楽の背景となり得る。すると時間が経って改めてその音楽に触れた際に、当時感じていた匂いや、聴いていた音楽が甦り、あのときあそこ歩いてたなとか、あの街にいたなとか、あれよかったな、とふと思い出すことがある。そういうときは、なんだか過去の自分も今の自分も変わらないなと感じ、嬉しくもあるようで、恥ずかしくもあるようで、そのどちらにも当てはまらない妙な気持ちになるわけだ。しかし結局のところ、私はその時のそのむず痒さが好きなのだ。

人の残したものでそうなるくらいなので、自分の残したものなんてものは私のために『記憶の補助』を役割をしてくれているものなのかもしれないと思い込み、余計に愛着が湧いてしまうのである。それだけでなく、もはや、「もしかすると、今後も私はそういったものたちに囲まれ愛で続けながら生きていきたいのかもしれない」とさえ、今は思ってしまっている。思ってしまっているから、やはりこの文章もその1つになり得るものであり、今ここにいる私をこの文章に押し込めるべく、一方的にでも文章に起こして整理するのは大事なのだな、という視点にも気付いてしまうので、もうみんな早くそこらのSNSのくだらん文字制限なんて忘れて文章書いたほうがいいぜ、なんて今は思っている。

2023.12.27
加筆&公開:2024.09.08

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