二重化された“ジェンダー”/矛盾語法
(前置き)
言葉の意味はどうしようもなく変わっていくものである。旧来の意味と全く無関係だったり真逆だったりする変化も珍しくない。
原因はというと、意味の取り違えや書き間違い・略記や発音のし易さなどなど、日常的かつ適当で制御しがたいと考えられている。
だから、“ジェンダー”という語の使われ方がかつてとは大きく異なっていることも、それ自体は批判に値しない。
個人の外側にある社会的性(関連:性規範・性役割・ステレオタイプなど)
個人の内側にある心理的性(関連:性自認・性同一性など)
2.の方が新しい語釈だが、別に誤りではない。1.の意味が消えたわけでもない。
──ただ、『1.と2.を区別せず混ぜて使う』のは流石に問題があるだろう。
タイトルで“二重化”と表現したのはそのような使い方である。
○事例
きっかけは次のツイートだった。
松岡氏は、LGBTに関する情報発信等を行う一般社団法人fairの代表理事である。
端的に言って、筆者とは見解を異にする論者だ。
その立場から“何が起きているかよくわかる記事”と評されたなら、GC(ジェンダー・クリティカル)側との齟齬が明らかにしてくれるのでは、と期待を抱いた。
──結論として、『他人と話すつもりなら分かるように話してください……』と匙を投げるしかなかったのだが。
◆本論
紹介されている記事は7ページに及ぶが、本稿が指摘したい問題点は最初のページで露わになっている。
この記事は“トランス・インクルーシブ派”の立場から書かれたもので、その主張を貶めるような意図で歪められた考えではない……はずなのだが。
◇『〜派』とかじゃなく
ジェンダーという語について、『前置き』から再掲しておこう。
個人の外側にある社会的性
個人の内側にある心理的性
『社会的な性別はそれぞれが自認するもの』というセンテンスは、
$${ジェンダー(1)=ジェンダー(2)}$$
と言いたいのだろうか。
何らかのレトリックでないならそう読み取るのが妥当に思うが……しかしこの等式は単純に誤りだ。
論理としては矛盾律に該当する。
また、ある個人が──その人の能力や成果ならばまだしも、内的な自認が──自身に対する他者からの評価を決められるわけが無い。
$${ジェンダー(1)≠ジェンダー(2)}$$
この不等式は党派的なものだろうか?
筆者にとって自明なのだが、何らかの前提をおけばイコールになるのだろうか?
個人の外的要因と内的要因とをイコールで結ぶ認識は、『そういう考え方(〜派)もあるよね』として併存させるのではなく、『何を言いたいのか分かりません』と問い返すべきだと筆者は考える。
◇一般論として
ジェンダーという語をどちらの意味で使おうと自由だ。
しかし1本の記事/1つのセンテンスの中では、どちらかの意味で使って貰わなければ『話にならない』。罵倒ではなく実際的な問題として、コミュニケーションが成立しなくなってしまう。
今回の例で言えば、社会(他人)の話をしてるのか自認(自分)の話をしているのか理解されない。
これは“ジェンダー”に限った話ではなく、普遍的な一般論だ。
例えばoversightという英単語は完全に相反する意味を持っている。
注意深い観察
不注意による見落とし
どちらを指すかは状況次第という翻訳者泣かせの単語(Janus word)だが、同時に両方ということはあり得ないだろう。
一見して意味を成さない文章と言えよう。しかし文の構造は同じである。一体どう読むのが正しいのか?
あえて矛盾を述べる撞着語法という修辞技法もあるにはある。『負けるが勝ち』とか『生ける屍』のような形だ。
しかし問題の記事は詩や随想ではなく、社会に人権を問う論説文のはずだ。まず伝わり易さを優先して欲しい。
◇伝わらなければ意味が無い
筆者に分からないというだけで、『注意深い観察は不注意による見落としである』という文から意を汲める方もおられるかも知れない。
高名な活動家やポストモダン学者の本を何冊か読めば当たり前に理解できるとしたら、それは筆者が不勉強という話になるのだろう。
そのように仮定した上でも、問うて良いはずだ。
『じゃあどうします?』と。
分かりやすく説明し直してくれるなら傾聴しよう。
勉強しろというなら……『なら結構です』となるわけで。
ことは“ジェンダー”という、トランスの話題ではごくごく基本的な語の・基本的な意味だ。
この語の意味がそんなに難解だと言うなら、もう筆者には『理解できないモノ』と匙を投げることになる。分からないものは分からない。配慮も何も諦めることになるだろう。
GCとされる側の全員がそうではないにせよ、少なくとも筆者個人は、トランス・インクルーシブ派(またはTRA,トランスジェンダリズム側)の発信を傾聴し、意味を理解できるよう努めてきたつもりである。
『意味分かんねえ』などと説明を強いたり嘲笑するような行為も……全くしていないと断言はできないが、すべきでないことと考えてやってきた。
それでも理解できないような記事を、“何が起きているかよく分かる”ものとして紹介されると……そろそろ対話不可能と見做すしかない。
伝わらない言葉を振りかざす人達と対するに、ひとまず耳を傾ける姿勢は必要だが、どこかで見切りをつけなければ倒れてしまうのだから。
“目覚め(ウォーク)とは傾倒である”など、笑えない皮肉である。
◆追記(23/04/11)
4月9日、気になるニュースを目にした。『性同一性障害を総合的に診療する医療センター東北大病院に開設』というものだ。
嫌すぎる……(タヴィストックについては↓)。
そんなことになって欲しくないので病院の方を見に行ってみると──
──まさに本稿で扱った、二重化された矛盾語法である。
◇矛盾語法
一応、真面目に読み解いてみよう。
引用で省略した〔…〕の部分にあるのは、次のようなもうひとつの『状態』。
生物学的な性と、自認する心理的・社会的な性が一致しない状態
生物学的には完全に男女どちらかの性に属し、ご本人もそのことを認知していながら、人格的には自分が別の性に属していると確信している状態
そして、この2つを“すなわち”で繋げている。『別の言葉で説明し直しているだけの同じもの』と言いたいらしい。
となると、“自認する心理的な性”と“人格的には自分が別の性に属していると確信している”ことが関連するのだろう。それは(まだ)分かる。
では“社会的な性”は?
“自分が別の性に属していると確信して”いたら社会的にもそう扱われるべきだ、とでも??
そんな合意は為されていない。
仮に為されているとしても、それなら治療の必要が無い。
この短い文章にさえ矛盾を含んでしまう概念で、患者の納得を得られるのだろうか? また、その医療はEBM(根拠に基づく医療)と呼べる客観性を備えているだろうか?
◇余談
──同じページに次の記述がある。
身体的治療を望まなければ東北でも受けられたが、望む人は他所に行くしかなかった、と。その状況を改善する、と。
つまり薬理的・外科的介入がこのセンターの本陣のようだ。
組織の成立経緯からして、『結論ありきの治療』に走りやすい──タヴィストックの轍を踏む──前提条件が揃ってしまっている。
最低限、年齢制限と外部からの監査は必要ではないかと考える。
以上
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