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「自己犠牲」のウソ

子どもの頃から大人になるまで、「自己犠牲」は美徳であった。

含蓄のある古典にしても、
流行りのドラマにしても、
深夜のアニメにしても、
ケータイでやるドラクエにしても。

自己犠牲は美しく、儚く、その献身は周囲によって活かされ、時に「奇跡」をまとってその犠牲を「なかったこと」にする。正しい行いは報われるのだ。情けは人の為ならず。主人公はそうやって悪の企みを折り、皆を幸せに導いていた。

反面、利己主義的な行いやずる賢いものは往々にして悲惨な末路を辿るのだ。同志にもいずれ見捨てられ、幸せになれない。本懐も遂げられない。

ズルはいけないよ、正々堂々として利他的に振る舞おう。


大学を出て社会人になり、なんだかんだがあってプロジェクトの責任を持ち、推進していく身になるとこの「自己犠牲」が「正解」ではないことに気付くようになる。気付くようになった。

自分が身をやつして穴を埋めること、
必要なことを我慢してやること、
自分の労働時間でカバーすること。

決して正解ではない。なんなら悪まである。

理屈は簡単で、「誰かを幸せにする自己犠牲」ではないし、「避けられない自己犠牲」でもないからだ。
誰かがどこかで自己犠牲で切り抜けた仕事は、その後任や周囲に影響を与える。悪い影響をだ。後任は増えた業務を捌く必要が出てしまうかもしれないし、周囲は成長機会を奪われる。結局自分しかできない仕事が残り続けてスケールしなくなるし、周りはそれができないままになる。属人化リスクが肥大する。被害者意識を育てて返報を期待するし、勝手に期待して勝手にがっかりして、関係の悪化まで、ほらゼロ距離だ。
無計画の帳尻を自分の犠牲で補うべきではない。自分の犠牲で未熟さを埋めるな。犠牲を払えなくなった時に残るのは、納期に間に合わない無能な自分だけだ。
百害あって一利なし。いやまあ、その日だけは、楽できる人がいるかもしれないが。

そりゃ自己犠牲は素敵だよ。それが「自己犠牲」ならば。

とどのつまり、自分がやれば楽な方に逃げているだけだ。それを自己犠牲だなどとのたまって、善人の面をしているだけなのだ。自己犠牲なんてものでは到底ないのに。自己犠牲もどきの甘言に騙されるな。


自分が苦しい想いをしている時、しなければならない時。それが恨みつらみに変わりそうな時。自分の周囲を見直した方がいい。

美徳である自己犠牲を取り戻し、悪しき自己犠牲もどきから脱出して、もっと楽に成果と幸福を得る工夫をするべきだ。

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