見出し画像

行住坐臥。

「行住坐臥」とは、「立っているときも座っているときも行いのすべてが修行である」という意味…だったと思う(汗)。
なぜこの言葉が頭によぎったのかというと、私の武術の考え方が、少し深くなったからだ。
ある私の秘武器術の師の言葉だが、「マジシャン(奇術師)のように稽古をしないと一生かかってもモノにはならない」という。どういうことか?
マジシャンという人種は、人に手品を見せる予定がないときも、ネタを仕込んで持ち歩いているそうだ。当然、隠し持っているということだろう。
武芸百般の秘武器術も似たようなものだという。

今夜、ようやくその言葉の意味がわかった。私はこれまで、形だけでも真似をしようと、鎖などを、それこそ行住坐臥、隠し持っていたのだが、どうやら違うらしい。完全にそうじゃないわけではないが、当たらずとも遠からずだったようだ。

私は現在、生涯の武器として、萎えし術を50センチほどの棒でやっている。この萎えし(つまりただの棒)を手足のように動かせることを夢みている。
これまで、萎えし術の一連の動きを繰り返し練習したあとは休憩をするのだが、休憩のときも鍛練用の棒を持っていた。だが、行住坐臥、鍛練するということは、そうじゃないことがわかった。つまり、萎えし術の一連の動きを繰り返し練習したあとも、傍らに常に萎えし棒を置いておくこと、寝室にまで持ち込み、共に寝起きすることこそが、行住坐臥の真の意味であり、師の言いたかった、見せる場がなくとも仕込みは常に欠かさないマジシャンの、その姿勢だったのだ。
なにも精神的なことを言っているのではない。合理的なトレーニングであれば、ドリルをいくつかに分けて稽古したほうが効率的だろうが、それでは生涯に扱える道具の数は限られてくる。たかだか現役時代が約50年として、その50年で扱える道具は武芸百般、100種類である。一つの道具を半年で達人クラスまで引き上げなければならない。明らかな矛盾である。
と、まあ、合理的かつ効率的トレーニングではこうなる。だが、実際の武術はそうじゃなかった。“これ”といった道具と寝食を共にする、行住坐臥、それが他の道具の扱いの底上げにもなるのだ。

今晩、ようやくわかったのだが、萎えし術の一連の動きを繰り返し練習する、それは必要である。だが真の上達は、していないとき、傍らに萎えし棒はあるが、それに思いを巡らしながら時を過ごしているときに、腕前は上がる。
理屈ではないのかもしれない。
恋とは逢えないときに育まれ、恐怖とは起こる寸前が最高潮である。そういうことに似ているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?