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小畑健先生の初連載『CYBORGじいちゃんG』への個人的疑問に関する個人的調査報告
小畑健先生について
小畑健先生は、ジャンプで大成功した漫画家のひとりです。
『人形草紙あやつり左近』『ヒカルの碁』『デスノート』『バクマン』『プラチナエンド』といった作品がアニメ化。
現在は『ジャンプSQ』で『ショーハショーテン!』を連載しています。
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やや語弊のある言い方をしてみると「バクマンのお笑い芸人版」みたいな漫画で、普通に面白いです。
デビューは早かった
小畑先生は、1969年2月生まれ。(現在53歳)
高校2年の1学期に投稿した『マルス』という作品が、ジャンプの月例賞の佳作に入りました。
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講評「一所懸命かいている」「年齢のわりにはしっかりした絵と話だと思う」
そして、高校2年の2学期に投稿した『500光年の神話』が、手塚賞(ジャンプの年2回の新人賞)に準入選。
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本宮ひろ志「ストーリーは月並みだが、絵の完成度が非常に高い」
手塚治虫「年齢のわりに絵がうますぎるほど。絵におんぶしている」
※『マルス』のときは本名の「小畑健」名義でしたが、『500光年の神話』からしばらくの間は「土方茂」というペンネームを使っていました。
アシスタント修行
と、1985年に高2(16歳)で手塚賞準入選を果たした小畑先生。
1987年2月に18歳の誕生日を迎えて、1987年3月に新潟の高校を卒業します。
それから上京して、ジャンプで『特別交通機動隊SUPER PATROL』を連載していた次原隆二先生のアシスタントになりました。
ただ、その次原先生の漫画は1987年46号で打ち切り。
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『ザ・モモタロウ』の連載が始まったばかりのにわのまこと先生のアシスタントに移りました。
(にわの先生の単行本コメントによると、小畑先生は1987年46号掲載の第5話から参加したとのことです)
この時期には、ジャンプの増刊号(1987年の Autumn Special)に、小畑先生の読切『ロングシュート』も掲載されています。
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初連載
そして、1988年2月に19歳の誕生日を迎えて……。
夏の増刊号(1988年の Summer Special)に、『CYBORGじいちゃんG』という読切が掲載されました。
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受賞作や『ロングシュート』はストーリー漫画だったのですが、これはギャグ漫画でした。
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作者コメントは、「今回バカになってかいたらホントにバカになった。こんなワタシを哀れと思ったら応援してね~っ」。
師匠の次原隆二先生は『CYBORGじいちゃんG』について、「それまで、僕は彼のストーリー物の作品しか知らなかった」とコメントを寄せており、新境地だったと思われます。
この読切は好評だったらしくて、『週刊少年ジャンプ』本誌の1988年46号に『CYBORGじいちゃんG』の2回目の読切が掲載。
それもアンケートが良かったのか、連載が決まりました。
そうして、年が改まって1989年。
1月に昭和が終わって平成になり、2月に小畑先生が20歳の誕生日を迎えて……。
5月から『CYBORGじいちゃんG』の連載が始まります。
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やはり絵は素晴らしかったと思います。
ほかの「家族がロボット」ネタの漫画と比較しても、このジイさんのビジュアルのインパクトは突出していました。
しかし、惜しくも31話で打ち切り。
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1989年11月28日に連載が終了して、単行本第1巻の発売は翌年の1月10日でした。
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1巻が1990年1月に発売。それから、2巻が4月、3巻が8月、4巻が10月……と、連載が終わってから全4巻が順次刊行されました。
ヒットは遅かった
『CYBORGじいちゃんG』の連載終了後、1990年3月14日発売の『ジャンプ』増刊号に載ったのが、次の予告でした。
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『ATLady!』(1989年52号~1990年11号。10週)
『てんで性悪キューピッド』(1989年32号~1990年13号。32週)
『CYBORGじいちゃんG』(1989年22号~1989年52号。31週)
『カメレオンジェイル』(1989年33号~1989年44号。12週)
と、ここに挙がっている4つのタイトルは、すべて「1989年に始まって短期で終わった新人の初連載」でした。
こうして「新鋭」として並んでいる全員がのちに成功するのが、このページの異常なところなのですが……。
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それぞれがブレイクした連載は、次のような感じでした。
のむら剛(岡野剛)→1993年 38号から『地獄先生ぬ~べ~』
鳥留夜母屋(冨樫義博)→1990年 51号から『幽遊白書』
土方茂(小畑健)→1999年 2・3合併号から『ヒカルの碁』
成合雄彦(井上雄彦)→1990年 42号から『スラムダンク』
と、井上先生・冨樫先生が1990年、岡野先生が1993年にヒット作の連載を開始しています。
それに比べると、小畑先生は1998年まで長期連載がなく、遅咲きだった印象です。
※1995年の『人形草紙あやつり左近』は後に再評価されましたが、31話で終わった短期連載で、連載当時に「成功」のイメージではなかったです。
しかし、29歳から『ヒカルの碁』『デスノート』と大ヒットを連発して、だれもが知る人気作家になるのでした。
『サイボーグじいちゃん』で佳作入選?
ところで、2003年に発売された、『漫画家人名事典』という8500円もする本があるのですが……。
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それを見ると、次のような記述になっていました。
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「1986年、高校2年の時に『週刊少年ジャンプ』へ『サイボーグじいちゃん』を投稿、佳作入選」
たぶん、何かのインタビューとか、なんらかの情報元があって書かれたものだとは思うのですが……。
1986年に『サイボーグじいちゃん』をジャンプに投稿して佳作というのが、よく分かりません。
当時、新人が『ジャンプ』に投稿するような賞といえば、「フレッシュジャンプ賞」「ホップ☆ステップ賞」「手塚賞」「赤塚賞」のどれか?
しかし、結論を書くと、それらの賞について小畑先生の高校時代のジャンプの結果発表を全チェックした限りでは、それらしい情報は見つかりませんでした。
(Wikipediaのこと)
現在のWikipediaの「小畑健」のページを見ても、『漫画家人名事典』を出典に、小畑先生が1986年に『CYBORGじいちゃんG』で佳作入選したという記述になっているのですが……。
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当時の誌面をざっと見た限りでは、この記述を疑わしく感じております。
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