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自然素材とプラスチック


自然素材のおもちゃはいい、
プラスチックは良くない、

というよくある会話をこないだ横で聞いていた時
なんだか違和感があって、それについて最近よく考えてた。
そのあたりのごちゃごちゃを言葉にしてみたい。


木や布のおもちゃやお人形はやわらかくやさしいし、
プラスチックでも遊び古した痕跡があるのとか
誰かの気配や温度を感じるのが好きだなと思う。
(でも、精巧な編みぐるみとか想像の余白がないのは
飽きちゃうから、素材より完成度が重要なのかも?)


環境のはなしとかはおいといて、
人が地球のものをこねくりまわしてつくったものは
いずれ元素の粒々に還る元々みんな同じ仲間だって
今の自分はとらえているけれど、
プラスチックてそのへんにある木や繊維や鉱物でもない
何からどうやってつくられたかよくわからんものだから
自分とつながっているものとは感じにくいのはわかる。


先日アーミッシュの記事をたまたま読んで、
アーミッシュと自分達の違いにも通じるものを感じた。

アーミッシュは今でも大草原の小さな家みたいに
車でなく馬車に乗り、電気でなくランプやろうそくを灯し、
井戸を掘って水をくみ、素朴な服を自ら仕立て、
テレビや電話などテクノロジーから距離をとり、
コミュニティと信仰を大事にして暮らしているそうで、
それは小さくシンプルで手の届く世界だろうなと思う。

一方こちらの世界は複雑ではてしなく広く遠い。
どういう仕組みで動くのか知らない乗り物に乗るし、
どうやって掘って運ばれてきたか知らない燃料を使うし、
どこからどうやってきたか知らない水や電気を使い、
どこの誰がつくったか知らない服を着て、
ゴミや排泄物はどこかで誰がが処理してくれてて、、etc.
生まれて死ぬまでいろいろよくわからないまんま
生きることに慣れていくのって
代わりに何か鈍らせているのだろうなと思う。

手の届く世界に近づけたら素敵だと思っているけれど、
でも、すべてをまかなうことは到底できないし、
こちらの世界は広く遠すぎて、
学ぶことは山ほどあれどすべてを知るには限りがない。

両極端を行ったり来たりした末に、
でたらめでも大らかでいたいなぁと今の自分は思ってる。
好き嫌いといい悪いはごっちゃにしないでいたい。

何かを否定し遠ざけ閉ざしていく窮屈な心は
極まれば自分も他人もゆるせなくなってしまうから…。

現実は矛盾に満ち満ちているもの。
ひとつの世界の中に美しさも汚なさも天国も地獄もある。
ひとりの人の中に優しさも残酷さも清らかさも傲慢さもある。

生きていることは、
カオスの真ん中でほんとうに純粋なもの、愛しいもの、
自分だけの宝物を見つける冒険みたいなものと思う。

だから目を開いて、
心を開いて、
どんな世界でも沼でも経験したらいいよ。

子が大きくなったらそんな話をしたいなと思う。

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