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着ぐるみを脱いで丸腰で生きる

子どもって全開だなぁと思う毎日。
納得できないと余計加熱するロケンロールガールなので人間界の慣習をまだあまり教えておらず、この上なく行儀は悪いしやりたい放題で、どこでも寝転がったり潜り込んだり叫んだり水を吹いたり唾を塗りたくったり、節度とか躊躇がない。境界線もなく、誰彼構わずに手を振りまくる。輝くこの全開の魂を損なわないよう見守り育てたい。

誰もがこんな剥き出しのエネルギーの魂で生まれて、それは大人になってもずっと芯には在り続けているんだろうなぁと思う。
剥き出しのまま傷つくの覚悟で生きるのも着ぐるみを厚着して生きるのも、無防備な魂を守ろうとする現実へのレスポンスのバラエティと思うと、なんと魂とはどれも無垢なのだろうと思う。そして、誰もが大切な自分を守ろうと好きこのんでそれを選択しているんだなぁと思う。


本当かは知らないけれど、脳機能学的に人は目と目があった瞬間にどちらがその場の制空権を握るのか判断する野生の感覚みたいなものがあって、それは自己肯定感の高さからくる安心感でリラックスしているかどうかに左右されるのらしい。

今まで魅力的と思った人を思い浮かべてみたら、激しかったり柔和だったり苦悩してたり朗らかだったり色々だけれど、顔も声も言葉も雰囲気もすべてがその人の燃える魂そのもの、着ぐるみ感がない人だったなぁと思う。どう生きるかなんてなんでもありとは思うけれど、魂に背かず生きることは喜びであり、自然の掟、動物の掟でもあるんだろう。


この数年間、学校や行政などにアプローチするお母さん達と活動をともにすることがあって、今は子どもが人質みたいな時代だから言葉をすごく選んで臨んだんだけれども、多くは表面的形式的なレスポンスで、ブラックホールにエネルギーを投げ込んでいるような徒労感の連続だった。

あぁ、着ぐるみの外側に話していても永遠にダメだ、というか着ぐるみ同士で表面的に波風立てないようやり過ごしてきた姿勢がこの景色を招いたんだな、子どもを着ぐるみの中に矯正する連鎖を生んだんだなと思った。
自分の仏の部分だけ見せて心通わせたいなんて人間を舐めてたと自分を恥じた。相手が着ぐるみを脱いでくれるかなんかわからないしほぼ可能性はないと思うけれど、丸腰で着ぐるみの中の人に向き合う、それでやっとスタートラインなんだって。

自分の思いを開放して人を不快にさせたり傷つけたいんじゃないけれど、でも他者の感情や感覚で勝手に傷ついてしまうなら、それはその部分で自分が清々しくない時だったと我が身を振り返ってみると思う。言いたいことを開放しないと自分が澱んでしまう。それに、もしすべての人が素の自分を開放したところで、理性的な人楽観的な人慎重な人、いろんな人が世界にはいてきっと調和が取れていく。それはとてもカラフルな生き生きした世界だろうと思う。

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